輪王寺
【りんのうじ】
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日光市山内にある寺。天台宗。山号は日光山。本尊は三仏堂の阿弥陀・千手観音・馬頭観音。天平神護2年勝道上人が開いた四本竜寺に始まる。弘仁元年嵯峨天皇から満願寺の寺号を賜わり,以後日光山一山の総号となった。鎌倉期の光明院,室町期の座禅院権別当の執務時代を経て,江戸期の輪王寺宮の時代を迎える。空海撰の「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序」によれば,開山の勝道上人は芳賀郡出身で(真岡(もおか)市の仏生寺付近といわれる),俗姓は若田氏(性霊集/古典大系)。出流(いずる)山(栃木市)で修行し,薬師寺(河内郡南河内町)に入り27歳の時恵雲律師(鑑真の弟子)に従って受戒。天平神護2年当地に入り,大河(大谷(だいや)川)を渡って草庵を結び,千手観音を安置して四本竜寺と称した(補陀洛山建立修行日記/続群28上)。出流山での千手観音との出会いなどから見ても,上人は観音に対する深い信仰を持っていたのであろう。四本竜寺創建後の神護景雲元年,補陀洛山(男体山)への登頂を初めて試みたが失敗。天応2年に山頂を極め二荒山奥宮を祀り,延暦3年南湖(中禅寺湖)畔に中宮祠を設け西隣に神宮寺である中禅寺を建立した(沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序,中禅寺私記/群書24)。中禅寺の本尊は千手観音で,上人が立木のまま刻んだため立木観音とも呼ばれる。上人は上野国の講師に補せられ,大同2年の旱魃の際には補陀洛山で請雨の祈祷を修し効験を得て(沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序),弘仁元年嵯峨天皇より満願寺の勅号を賜わったと伝える。平安初期弘法大師空海と都賀郡出身の慈覚大師円仁(のちの3代天台座主)来山の伝承がある。空海は弘仁11年に二荒山神社別宮の滝尾権現を勧請(日光山滝尾建立草創日記/続群28上),嘉祥元年には円仁が滝の山麓に阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音を祀る三仏堂を建立し,さらに比叡山にならい恒例山の南に(常行)三昧を修する常行堂と半行半座三昧を修する法華堂を建立したという(円仁和尚入当山記/日光市史)。しかし両大師の来山は信じ難く,特に常行堂の開創は平安末15世座主聖宣の代まで下ると考えられる。聖宣は顕密兼備の学者と謳われ,座主在任中の保元3年,以前日光山に巡錫した比叡山の僧寛朝宛に常行三昧修行の十四禅衆が使う袈裟14領の礼状を送っている。そこに「爰に聖宣,或は筋力を励まし或は住僧に勧めて,本寺(比叡山)の常行堂に模して,新に以て当山に建立」したと述べ,「日光常行三昧堂検校法師聖宣」と署しており(輪王寺文書/県史中世1),保元3年を大きく溯らない時期に常行堂が建立されたと推測される。さらに後世の史料だが,建久3年焼失した常行堂を再建する時作られた「引声阿弥陀経縁起」に「爰に叡山の行法を移して,久安元年より始む」とあり,この年を創建年代とする説が有力(日光市史・県史通史編2)。保延7年に式部大輔藤原敦光が著した「中禅寺私記」(群書24)より日光山の呼称が定着し,山内の堂塔もかなり整備されたことがうかがえ,聖宣の指導の下に活発な学業活動がなされたと思われる。その後,台頭してきた在地豪族の外護や介入を受けるようになった。聖宣没後の治承年間,那須氏出身の禅雲と小山一族の常陸国の大方氏出身の隆宣との座主職争いが,出自の豪族どうしの争いに発展。山内は大混乱に陥り,四本竜寺をはじめ多くの寺院・社殿を焼失し一時衰退したという(日光市史)。しかし鎌倉期源頼朝の保護下に置かれ,文治2年9月下野国寒川郡内に三昧田として田地15町の寄進を受けた(吾妻鏡)。三昧田とは常行堂での常行三昧にあてる費用で,日光山の常行堂は後に頼朝堂とも呼ばれる。頼朝の三昧田寄進以来幕府および御家人との関係が緊密になり,宝物や建物を施入された。承元4年頃常陸国の大方政家の6男但馬法印弁覚が23世座主を継ぎ,護持祈祷僧として将軍実朝の信任を得,平安末期に座主争いで荒れた山内の復興を図った。弁覚は下野内外の在地豪族に働きかけ,建保3年に二荒山新宮を現在地に遷宮造営し,同5~6年には佐野国綱・景綱・親綱,小山朝政らによって中禅寺に殿宇が寄進された。また三仏堂の修復にあたっては,千手観音と二十八部衆は結城朝光,阿弥陀如来は常陸の豪族笠間時朝,馬頭観音は宇都宮忠綱が修造したと伝え,山内は一新した(日光市史)。弁覚は日光山中興と言われ,仁治元年光明院を創設。以後光明院は衰退した四本竜寺に代わる本坊として衆徒36坊,支坊300余を統轄することになった(日光市史・日光山志)。衆徒36坊は座禅院・三融院・浄月坊・顕釈坊・遊城坊・浄土院・桜本坊・教城坊・禅智坊などからなり,小山・宇都宮・壬生・結城・佐竹・那須・塩谷氏ら豪族の子弟が付弟として入山した。このころ所領も増加し,「日光山常行三昧堂大過去帳」によれば,都賀・寒川・河内郡内の石那田・大矢那久・大桑・土々呂久・関沢・山口などの「往古社領六拾六郷」と,薗部大平・日名田・久野・久賀・足尾の5郷を領したという(宇都宮市史)。日光山内の復興と整備に尽力した弁覚はまた,熊野の修験を導入したとも伝えるが,日光三所権現の信仰に基づく日光山独自の修験の体系が確立するのは鎌倉末期と考えられる(同前)。日光三所権現とは日光の山岳信仰に神仏習合説が融合したもので,三山・三神・三仏を男体山―大己貴命―千手観音,女峰山―田心姫命―阿弥陀如来,太郎山―味耜高彦根命―馬頭観音のように体系づける。修験者の信仰対象として日光三所権現・勝道上人,修験道の開祖といわれる役小角などの板絵が多く描かれ,入峰修行の道場である瑠璃宿・両林宿・深山宿などの宿に奉納された。その時期は日光山修験の確立期である鎌倉末期に集中する。入峰修行は春峰・夏峰・冬峰の3回の入峰と秋に行う五禅頂をあわせ三峰五禅頂と称し,勝道上人の修行の足跡にならったと伝える。範囲は男体山をはじめ,大真名子山・小真名子山・太郎山・女峰山などの日光連山だけでなく,横根山・古峰原(こぶがはら)・出流山をも含む広大なもので,南北朝期~室町期,関東における一大霊場として最も盛えた(日光市史,日光山と関東の修験道/山岳宗教史研究叢書8)。しかし,一方では日光山の常行堂で学業を本務とする講衆と修行を本務とする堂衆との間に争論が起き数年にわたって続いた(輪王寺文書/県史中世1)。この頃山内の他の寺院では,観応2年河内郡薬師寺村を本拠とする薬師寺公義・公光父子が中禅寺の宝殿を造立し,至徳2年に中禅寺上人宥覚が修復。明徳2年二荒山本宮・四本竜寺が火災に罹り,三重塔・鐘楼を失っている(日光市史)。建長5年鎌倉勝長寿院別当尊家法印(六条顕輔の曽孫)が25世座主を兼帯して以来,座主は藤原氏や皇族から補任され,勝長寿院の別当を兼ね鎌倉に常住したため日光山内の法務は36衆徒の1つ座禅院の権別当が執るようになった。さらに応永年間の終り頃36世座主持(慈)玄を最後に光明院の座主は断絶。以後は座禅院主が御留守居権別当と称して天正18年まで山内を統轄する(日光市史)。「日光山常行三昧堂大過去帳」などの所伝では,37世権別当昌瑜の時から座禅院が光明院に代わって本坊となったという。昌瑜が壬生氏出身であったため壬生氏との関係が強まる一方,下野内外の在地豪族との関係も深くなった(同前)。永享11年鎌倉公方足利持氏が乱を起こし幕府軍に破れた際(永享の乱),持氏の子安王・春王が結城氏に縁の深い顕釈坊に一時逃れている(日光市史,結城合戦絵詞/続群20上)。これより先の応永21年大風で常行堂を破損(輪王寺文書/県史中世1)。本尊などは一時恵乗坊・法華堂に移転され,翌年恵乗坊常誉が中心となり再建を進めた(日光市史)。その際日光山領に段別銭を課したが,都賀郡府所郷の百姓たちが反抗して逃散したため半分を免除するなどの譲歩がなされた(輪王寺文書/県史中世1)。室町中期,文明18年本山派修験聖護院門跡で熊野三山検校の道興,永正6年連歌師柴屋軒宗長と文人の来山が相次いだ。道興はやますげの橋(神橋)・滝の尾・白糸滝・中禅寺・座禅院をめぐり,「雲霧も及ばで高き山の端にわきて照りそう日の光かな」などの歌を残した(廻国雑記/群書18)。また宗長は紀行文「東路の津登」(群書18)で座禅院での連歌会・謡・舞のほか坂本(現鉢石町)の繁栄ぶりや,「滝尾の別所(滝尾権現)」から眼下の谷々を見わたして院々僧坊が500に余るなど山内の様子を詳細に述べ,日光山の隆盛,文化・芸能の一面を語っている。このとき宗長は昌瑜以来日光山との深い関係を持つ壬生綱房の案内を得て来山した。享禄3年に子の昌膳が座禅院主に就くと綱房は御神領惣政所となり日光山での壬生氏の勢力はますます強くなった(鹿沼市史・日光市史)。天正18年,神領政所壬生義雄(綱房の孫)が,小田原を攻めた豊臣秀吉に背き衆徒を率いて小田原北条氏に荷担したため都賀・寒川・河内郡に広がる広大な所領は没収。山中の寺屋敷,門前町(鉢石町),足尾村が寄進されるにとどまった(日光市史)。衆徒は次第に離山し,坊舎は座禅院のほか9坊を残すのみとなり,開山以来初めて存亡の危機にひんした。その後,文禄2年中禅寺の拝殿・瑞籬・別所の上葺,慶長2年逃荒山神社本宮の別所の造営,同12年中禅寺など一部の修営がなされた(同前)。慶長18年座禅院権別当は断絶し徳川家康の帰依を受けた天海(慈眼大師)が53世貫主に就任。座禅院は天海登山の時の宿坊となり,元和7年,光明院跡に本坊を建立(現在の東照宮御仮殿の地)。寛永18年には現在の三仏堂の地に再建された(日光山志)。元和2年家康が没すると関八州の鎮守になすようにとの遺命にしたがい翌年神柩を駿河国の久能山より日光山東照社(のちの東照宮)に遷した(本光国師日記/大日本仏教全書138)。この時天海は神廟造営に当たり,別当大楽院を建立(日光市史・徳川実紀)。遷宮以来日光山は幕府の保護と統制を受けるようになる。慶長14年家康が秀吉の寄進を安堵しその後今市村の700石を加えられただけであった所領も,元和6年には足尾村一円・今市村700石のほかに草久(そうきゆう)村379石余,久加村320石余が加増された。同時に東照宮大権現社領5,000石が天海に宛てられている(日光山御判物之写/日光市史)。寛永11年の家光の寄進状では「東証大権現並日光領,下野国之内弐拾弐箇村都合七千石」とし,家光没後の明暦元年,両所領は一体化して「東照大権現宮領」と総称し,1万石に加増,さらに大猷院領3,600石余を加え,計77か村1万3,600石余の日光神領の「本高」を設定,これに寛文6年の検地打出高7,175石,元禄13年の足知高3,801石余,同14年の新加498石余を加えた2万5,000石余が実高で,幕末まで継承される(日光市史)。これより先寛永15年,日光山の復興と東照宮の勧請,比叡山を模した相輪橖の建立,「東照社縁起」(慈眼大師全集上所収)の撰述,天海版「大蔵経」の刊行などに尽力した天海が入寂。山内の大黒山に葬られ,後廟所に御影堂(慈眼堂)が建てられた(日光市史)。天海の弟子公海が54世を継いだのち,承応3年天海の建案どおり後水尾天皇皇子守澄法親王が55世貫主に就き,「日光山門室」として天海が開いた江戸の寛永寺を兼帯。翌明暦元年10月天台座主に任じられ,同年11月「輪王寺宮」の号を後水尾上皇から賜わった。以来住職の宮は輪王寺宮または日光御門主と称して日光全山のみならず天台一宗を管領した(日光市史,辻善之助:日本仏教史8)。輪王寺宮は寛永寺に住し,4月15日~5月21日,9月10日~同月21日,12月29日~正月21日の間御本坊に入り祭儀に臨み寺務を決裁した(日光山志)。そのため寛文7年代務者の御留守居が置かれ,また日光山神領の直接の支配には目代の山口氏があたった。山口氏は天海の俗縁で8代にわたり目代を世襲。幕府は目代の権現を制約するため合議制を採り,寛政3年には目代を廃して日光奉行が直接神領を支配することになった(日光市史)。そのほか山内の運営機構には学頭修学院,東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院・釈迦堂別当妙道院・慈眼堂別当無量院・新宮別当安養院(以上5別当),新宮・滝尾・本宮・寂光・中禅寺の五上人。衆徒中,一坊中,社家などがあった。日光山内には諸堂・日光三社(弐荒山神社本宮・新宮・滝尾神社)以外に,一坊中の80坊,衆徒中の20院が立ち並ぶ。80坊は東山谷・仏岩谷・南谷・西山谷・善女神谷の5谷に区分されて設けられていた。天正18年以降の経済的窮乏と衆徒の離山で衰えた日光山修験も,天海が貫主に就任し再び活気を帯びる。天海は旧衆徒中より前述の80坊を再興し天台門流に統一。日光山修験は,本山派修験の聖護院,当山派修験の三宝院の支配は受けず,輪王寺宮の統率下に置かれ峰修行などの修験行事を行った。両峰禅定(三峰五禅頂)・大千度行法・強飯式などは諸行事の中でも重要なものとして扱われ,星宿・大田和宿など全ての宿の新造や修復がなされた。しかし中世の修験に見られた抖擻性は失われ,権威保持のための伝統行事と化した。なお寛永元年に出羽三山を日光に勧請。文久3年には御岳山を大真名子山に勧請している(同前・日光山と関東の修験道)。江戸期幕府・諸大名の保護を受けかつてない隆盛をみたが明治威信は日光山に未曽有の大変革をもたらす。明治元年,戊辰戦争の舞台と化したが,危うく戦火を免れた。その際最後の輪王寺宮公現法親王は旧幕府軍に擁され各地を敗走。同2年輪王寺宮は廃され,一時学頭代を置き旧号の満願寺を称した。さらに神仏分離政策で,同4年に二荒山神社・東照宮・満願寺の二社一寺に分離せよと命じられたが,所領の上地,本坊焼失などで困窮し,2社にある仏教施設の移転は進まなかった。日光町および周辺の住民,住僧らは山内堂塔現状維持を訴え,同9年の天皇東北巡幸の後天皇から3,000円が下賜され「旧観を改めずに移転せよ」との命に従って三仏堂を再興。その後保晃会が成立し他の堂塔社殿の保存整備に努めた(日光市史)。同16年輪王寺号に復し,18年には比叡山延暦寺系列下の門跡号を許され現在の日光山輪王寺が確立した。大猷院廟の本殿・相之間・拝殿は国宝。二荒山神社(新宮)境内から移した三仏堂(本堂),相輪橖,常行堂,法華堂,開山堂,慈眼堂の拝殿・経蔵・鐘楼など多数の国重文の建物がある。また,国宝大般涅槃経集解をはじめ多くの経典・書跡・美術工芸品を所蔵。輪王寺に所属する中禅寺の立木観音堂は弘仁様式と伝える千手観音(国重文)が本尊で,坂東三十三か所観音霊場第18番札所。中宮祠の西隣にあったが,明治35年の男体山山津波で歌が浜に移転した。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7044197 |