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安中藩
【あんなかはん】


旧国名:上野

(近世)江戸期の藩名。碓氷(うすい)郡安中に居城を構えた譜代小藩。天正18年徳川家康の関東入部に伴い,井伊直政が箕輪12万石に入封し,安中周辺は直政領となった。直政は慶長3年高崎に居城を移して藩領の統治にあたったが,同6年安中領3万石に近江国佐和山15万石を合わせた18万石に封じられ,居城を佐和山(のち彦根)へ移した。元和元年井伊の家督を継いだ直孝は,兄直勝に安中3万石を分封し,ここに安中藩が成立した。井伊氏は直勝・直好と2代,30余年在封し,安中城の再興や城下の町並み整備につとめた。また特に直勝は碓氷・杢・西牧・大戸の各関所を固めて江戸北辺の守護の任にあたった。なお井伊氏の家臣団は佐和山からの随従士分80人・足軽65人の計145人が中核になった。正保2年直好は三河国西尾3万5,000石へ移封となり,代わって水野元綱が三河国新城1万4,000石から2万石に加増されて入部した。水野氏は元綱・元知と2代,20余年在封し,この間,元綱は寛文3年総検地に着手している。同4年の「寛文朱印留」による藩領は,碓氷(うすい)郡内34か村・1万6,450石余,群馬郡内5か村・3,549石余の計2郡内39か村・2万石であった。同7年元知は狂気を理由に除封となり,奏者番堀田正俊が相模・下総(しもうさ)・常陸3国内1万3,000石から2万石に加増されて入部した。正俊は同10年若年寄,延宝7年老中に就任し,この間昇進に伴い,延宝6年吾妻(あがつま)郡と武蔵国埼玉郡の両郡内で5,000石,同7年吾妻・多胡・甘楽(かんら)・緑野(みとの)・群馬・碓氷・勢多の計7郡内で1万5,000石を加増されて計4万石となり,天和元年には下総国古河9万石へ移封された。同年板倉重形が下野(しもつけ)・摂津両国内1万石から,碓氷郡内33か村・1万5,000石をもって入部,板倉氏は重形・重同と2代,20余年在封した。元禄15年重同は陸奥国泉1万5,000石へ転封となり,入れ替りに内藤政森が同地2万石から入封,藩領は碓氷郡内1万5,000石と美作(みまさか)国久米・北条両郡内5,000石の2国3郡内・2万石であった。内藤氏は政森・政里・政苗と3代,40余年在封。政森は宝永2年城主格を許されて安中城改修に着手し,政里もまた城郭整備につとめた。寛延2年政苗は三河国挙母(ころも)2万石へ移封され,再び板倉氏が遠江(とおとうみ)国相良2万石から同高で入封した。板倉氏は勝清から勝殷まで6代,120年在封して明治維新を迎える。勝清は入部時若年寄であったが,明和6年老中となり,幕政に参画した。勝清は明和4年1万石を加増されて高3万石になり,その藩領は群馬郡内6か村・碓氷郡内35か村のほか,下総国匝瑳(そうさ)・香取・海上(うなかみ)3郡内23か村からなり,このうち碓氷・群馬両郡内41か村を城付村と称した。文政6年城付村の戸数5,268,うち寺78,山伏寺1,人口2万2,119,内訳は男1万1,675・女1万156・出家156・山伏33・道心11・座頭4。地方支配については,城付領は,3郡奉行配下の4代官が頭村に指定した上野尻・谷津・常木・下野尻4か村の名主を通して統治し,下総国3郡内23か村は匝瑳郡太田村の陣屋に駐在した下総代官が統治した。家臣団は,天保11年で上士・中士が213人,下士39人,足軽53人の計305人で,このうち江戸詰が上士・中士109人,下士7人の計116人に及んだ。文化5年勝尚により藩校造士館が創設された。藩財政は,文政10年の試算で収納の59%に当たる3,951両の赤字を計上する窮迫ぶりで,同12年藩債は1万2,500両余にのぼっていた。この大きな原因は天明3年浅間山大噴火の降灰被害を引き金とする藩領荒廃の進行で,それに伴い貢租収納が低下し,加えて城付村では,人口が文化9年の2万3,173人から文政6年の2万2,199人へと減少の一途をたどったことにある。そのため勝明は,天保8年豪農層から出金させた小児・困窮人撫育金を元手に殿様御救穀と名付けた大麦を配給したが,その後も安政2年閑地・河川敷への漆苗植付利金による貧民救済,同3年全村から出した金を運用した貸付利金による退転農家取立てなどを推進して,藩は農村復興につとめた。弘化3年勝明は「甘雨亭叢書」を刊行し,安政2年郷学校桃渓書院を建てるなど文教に意を注いだ。その中で,慶応4年上野西部を襲った世直し一揆に城下まで侵入される事件が起きている。また同年には東山道総督府下に入り,偽官軍とされてしまった坂本宿在宿の赤報隊討伐,旧幕府陸軍奉行兼勘定奉行小栗忠順の追討などに奔走した。「旧高旧領」による藩領は,碓氷郡内34か村・1万4,881石余,群馬郡内6か村・2,693石余,下総国匝瑳郡内10か村・4,212石余,同香取郡内9か村・6,564石余,海上郡内4か村・4,226石余,計2か国5郡内63か村・3万2,576石余であった。明治4年廃藩置県により安中県となる。




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「角川日本地名大辞典」
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