100辞書・辞典一括検索

JLogos

37

片貝町
【かたかいまち】


旧国名:上野

(近世~近代)江戸期~昭和41年の町名。江戸期は前橋城下町人町の1町で,明治22年前橋町,同25年からは前橋市の町名となる。貞享元年の「前橋風土記」による城下19町のうちに町名が見える(県史料集1)。古利根川に沿い,その崖岸をまたぐ細長い町で,前橋台地と広瀬川低地帯の境に立地する。北側は馬場川を境に十八郷町と接する。前橋城下への東の入口にあたる町で,町内には松竹院梅林寺・磐若寺・無量寺などがあり,北の芳町の寺々,南の武家地田中小路とともに城下東の防御意図がうかがえる。町名のカタカイは,町の北側の馬場川沿いが低くなっている地形に由来し,これを片方だけ峡(かい)を成しているという意味でカタカイと命名したものであろう(地名のはなし)。文政4年の天川原村分間絵図などでは天川原村分のうちとして扱われているが,これは城下町形成時に天川原村内に町割りされたことによるものと思われる。文政4年の前橋総町絵図(勝山氏蔵文書)では,面積3町6反余,ほかに2寺院7反余があり,家数49。これ以前の戸数は,安永9年11月16日の大火記録(松平藩日記)では総家数43,このうち10軒が焼失している。寛政3年の家数・竈数・人別書上帳(前橋市立図書館蔵文書/県史資料編14)では家数35・竈数37,五人組山伏とも人数145,ほかに寺3。なお同2年の家数人別書上帳(前橋市立図書館蔵文書)では,組数4,家数37・竈数40,人数は男81・女62,山伏1,持馬6。寛政年間頃には町名主1・組頭4が置かれている(寛政元年惣町寺社人別帳)。また文政12年の諸職人元帳によれば,当町には鍛冶2・大工1・桶師1・屋根萱葺1が見える(勢多郡誌)。この大工1は,再築前橋城の御本殿御祝儀をもらった当町大工棟梁倉吉,あるいはその身内の者と思われる(松平藩日記)。また寛延初年頃には御用職人大工頭矢島仁太夫(給23石)がいた(御分限帳)。さらに慶応4年~明治元年頃には米穀商7もいた(松井家文書)。また文久年間に生糸商を開業した市村良平は,前橋屈指の豪商に成長,明治19年には当町に製糸工場市村社を創設した。このほかにも明治10年内海ヨシが始めた製糸工場,明治20年創業三輪製糸所,同42年創業藤巻太玉製造工場などがあった。なお江戸末期片貝町に居住した俳人に,高雅世・青木素舟・青木素雲がいる。当町は他町と同様に何度も火災をこうむっており,酒井氏時代の正徳5年には当町から出火(重朗日記),松平氏時代になってからは少なくとも5回は類焼を受けている。また,明治7年にも本町から出火の火事で延焼した。天明3年の浅間山大噴火による社会不安から百姓騒動が起こり,当町では稲荷屋利右衛門宅が打ち毀されている(松平藩日記)。幕末の前橋城再築に際しては,文久3年の幕府築城許可前に750両の資金を町全体で據出し,さらに元治元年には蚕積金44両余も上納している(松井家文書)。なおこの築城に当たっては,当町の市村良助が土居・堀世話方の1人に任じられ,名主格として再築作業を担当した(松平藩日記)。明治初期前橋各地に急速に学校が設置されたが,片貝町32番地には,明治7年創立の中川尋常小学校が新築され,中川町の民家から移転してきた。明治11年の戸数97・人口501。大正13年前橋を中心に県都の交通網を整備し近代都市へ飛躍する目的から,前橋南部耕地整理が施行され,当町の一部もその対象となった。また昭和27年には戦災復興事業として当町も区画整理事業の対象とされ,翌年まで続いた。同41年本町1~3丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7044929