台宿町
【だいじゅくちょう】
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旧国名:上野
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は館林城下19町の1つ(館林記/県史料集2)。延宝2年の館林城下町図(館林市立第一資料館蔵青山文書)によると,城下町の北部に位置し,城下を南北に貫通する日光脇往還の沿道付近に開けた町人町。町の北端には下野(しもつけ)佐野城下に通じる佐野口門が置かれていた。門外は旧矢場川の低地であった。「館林記」に「台宿は足次村の古名なり」(県史料集2),また「県邑楽郡町村誌材料」に「台宿は足次村の小名にして館林の入会村なり,依て此際全部商人となし館林に合併す」と見える。台宿の地名は,北部の低い窪地に比べて高台となっており,しかも人家稠密であることから称したかと推測されている(館林町誌稿)。法高寺略縁起によると,戦国期には当地一帯は台宿原と呼ばれ,天正18年豊臣秀吉の相模国小田原城攻めに先立ち,天徳寺了伯が作図したと伝えられる福地家蔵下野絵図によると,当町域南端付近に「小柳清水」という湧水があり,これに連なる流れが東へ延びて館林との境界をなしていた。慶長2年小柳清水の東の清水橋から北の佐野口門方面へ日光脇往還が貫通し,道の両側に町場が形成された。「嘉永元年館林城下地図」では「台宿町道幅七間」とあり,両側には町家が90軒,さらに東裏には北から「佐野口木戸守屋敷」「真言宗不動院」「同宗延命院」などが記されている。東裏の不動院境内に長良神社がある。同社は元禄元年代官町の旧社殿を譲り受けて創建された当町の鎮守である。明治10年当町から出火,火は当郷村にも及び大火となった。なお「県邑楽郡町村誌材料」では耕宅地4町8反余。なお「館林記」によると,延宝2年の家数は萱葺家98,人数375うち男192・女183,馬28。明治2年の宮杉家公用記(尾曳之跡)では,家数150,人数649うち男323・女326。また「嘉永元年館林城下地図」に町名が見える催促町は,明治5年の旧城下町図(館林市立第一資料館蔵文書)には記されず,同年までに,町域の西部が当町に編入されたと思われる。町名は,明治22年館林町館林,昭和29年からは館林市館林の通称町名として存続し,同42年広済町の一部を編入して館林市の正式町名となった。この間に代官町の一部を編入。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7045989 |