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竪町
【たつまち】


旧国名:上野

(近世~近代)江戸期~昭和41年の町名。江戸期は前橋城下町人町の1町で,明治22年前橋町,同25年からは前橋市の町名となる。貞享元年の「前橋風土記」(県史料集1)に見える下之町が竪町・横町・桑町に分かれて成立。東西の本町通に対して南北に直交する町で,東西の町を横町と称したのに対して竪町と呼んだ。北は広瀬川に架かる厩橋を渡って細ケ沢町,西は武家地で,のちの神明町域にあたる。元文4年の竪町水帳写(古屋家文書)の末尾によると,下ノ町分5町15歩のうち2町6畝7歩が竪町とある。同水帳写に屋敷割りは49筆あり,間口は5間から6間が約半数,10間以上が8筆あるが,屋敷面積は5畝以上が40名を占める。また水帳末尾に享保18年の竈数66・家数63,家数のうち本家38・店家10・小家15とあり,すでに階層分化が認められる。以降の戸口の変化をみると,まず明和8年1月12日の大火記録(松平藩日記)では,総家数63,このうち焼失61,また竈数64,うち土蔵4・御家人2・山伏2となっている。安永9年11月16日の大火記録(同前)には,家数64,うち焼失60,焼失家屋の内訳は家主54・店借6。寛政2年の家数人別書上帳(前橋市立図書館蔵文書)では,組数6,家数60・竈数73,竈数の内訳は家主60・借家8・尻付3・逗留2,人数は男136・女123,寺社1,持馬2。安政5年の竪町総家数増減改帳(古屋家文書)では,安政4年が竈数66うち家主46・借家20,家数61,人数は男152・女146,翌5年は竈数69うち家主48・借家21,家数61,人数は男160・女149。慶応3年の五人組改帳・寺社人別帳(高島家文書)では人数男172・女154・僧1となっている。当町は藩主の明和4年川越移城後もほぼ同様の人口を保ってきているが,竈数の増加はその中で階層分化が進んだことを示している。また慶応3年は,10年前の安政4年に比べ人口が増加しているが,これは前橋製糸業生糸市が盛況を迎えてきた背景による。慶応4年の越後生糸通行手形(池田家文書)によると,越後魚沼郡大崎村(現新潟県大和町)から糸荷2個が当町の中屋徳兵衛宛に送られたことがわかるが,この史料は前橋生糸市場の繁栄を示している。また当町に生糸商がいたこともわかるが,職人は文政12年の諸職人元帳で鍛冶1・大工1が見えている(勢多郡誌)。なおこの鍛冶は「御用釘屋に付役銀免」と記されている。明治8年曲輪町の一部を合併。同11年の戸数178・人口482。なお明治40年刊行の「前橋繁昌記」によると,町内に蚕糸4・土木3・工業13・衣服12・荒物17・雑貨16・料理12・飲料15・乾物青物等7・砂糖並菓子5・医療17・髪結銭湯2の合計123の商家が見え,立川町に次ぐ数字となっている(前橋市史4)。昭和41年本町1~3丁目・千代田町1~5丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7046108