沼田藩
【ぬまたはん】
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旧国名:上野
(近世)江戸期の藩名。利根郡沼田に居城を構えた小藩。天正18年真田昌幸は,豊臣秀吉から安堵された所領のうち利根・吾妻(あがつま)両郡内2万7,000石を長男信之へ与え,信之が沼田城に入って当藩が成立した。信之は入部直後から総検地を実施して藩領統治の整備につとめたが,慶長5年には関ケ原の戦の戦功で,父昌幸が領有していた信濃国上田3万8,000石と加増分3万石を合わせて9万5,000石となり,元和2年沼田から上田へ移った。信之は長男信吉に沼田2万5,000石を分封したが,寛永11年信吉,同15年その子熊之助と相次いで死去し,沼田領は信吉の弟信政が継いだ。明暦2年信之隠居に伴い,信政は本藩(信濃国松代10万石)を襲封し,信吉の庶子信利が利根郡内で知行していた5,000石を合わせて沼田3万石を襲封した。藩領は寛文4年の「寛文朱印留」によると,利根郡一円95か村・1万8,223石余,吾妻郡内73か村・1万1,077石余,勢多郡内7か村・698石余の3郡内175か村・3万石であった。すでに寛永20年信政が総検地を実施していたが,信利も寛文2~4年および延宝3~6年に,のち「拡大検地」と呼ばれる総検地を実施し,従来の藩領高の4.8倍に及ぶ14万4,226石余に打ち出した。この打出しを必要としたのは,最高2,367石を知行する年寄鎌原縫殿を筆頭に,年寄から狩宿番506人,持弓同心から馬廻同心533人,中間以下101人の計1,140人という過大な家臣団の維持に一因があったと思われる。しかしこの拡大検地は,過酷な貢租増徴となり,藩領内に慢性的な飢饉をもたらした。藩は延宝2年から種貸しを始めるが,天和元年にはその元籾7,992俵余にのぼり,また延宝9年から始めた藩の夫食貸しも同年には銭2,068貫余文に及んだが,それでもなお90か村の8,000人が飢餓人,35か村の4,989人が飢餓同然というほどの荒廃を招いていた。荒廃はあまり貢租収納増にならず,藩は万治2年の金7,732両余に対し,拡大検地後の天和元年には米5万145俵・金1万2,688両余を見込んだが,米1万3,700俵・金4,111両余を検見引にしたうえに,米1万6,598俵・金2,965両余の未進を生み,結局,見込の半分以下,米1万9,847俵・金5,612両余の収納であった。天和元年真田氏は改易となり,沼田城も破却処分されるが,それは,藩領内荒廃の進行に加え,幕命による江戸両国橋架替用材調達の遅延が主因とみられる。なお改易の引き金として語り伝えられてきた,代表越訴の典型として著名な磔茂左衛門事件には不明なことが多いが,藩領内状勢は事件が起きる可能性を十分秘めていたといえる。改易後,藩領は幕府領となり,貞享元年から幕命を受けた前橋藩主酒井忠挙による再検地が着手された。再検地は,利根郡内117か村で3万758石余,吾妻郡内88か村で2万4,888石余,勢多郡内7か村で415石余の計5万6,062石余とし,後世「お助け検地」と呼ばれた。元禄16年若年寄本多正永が下総国内1万5,000石から2万石に加増されて入部,再び立藩となり沼田城も再築された。正永は宝永元年老中になり,利根郡と河内国古市・安宿部・交野・河内・志紀5郡の2か国6郡内で1万石,同2年利根・吾妻両郡と河内国古市・讃良2郡の2か国4郡内で1万石を加増されて計4万石になった。なお上野(こうずけ)国内の藩領は,利根郡内85か村・2万7,501石余,吾妻郡内7か村・3,957石余の計92か村・3万1,458石余であった。享保15年本多氏は駿河国田中4万石へ移封され,再び幕府領となったが,同17年寺社奉行兼奏者番の黒田直邦が常陸国下館2万石から5,000石を加増されて入部した。直邦は同年老中となり,利根郡と武蔵国埼玉・比企・高麗3郡の2か国4郡内で5,000石を加増されて3万石になった。寛保2年子の直純が上総(かずさ)国久留里3万石へ移封され,代わって,老中土岐頼稔が駿河国田中3万5,000石から入部。藩領は,利根郡内48か村・群馬郡内20か村,河内国志紀郡内6か村・若江郡内7か村,美作(みまさか)国英田(あいだ)郡内51か村・勝南郡内2か村の3か国6郡内134か村で3万5,000石であった。土岐氏は頼稔から頼知まで12代・120余年在封して,明治維新を迎えた。安永年間の土岐氏領は,利根郡内48か村・1万9,174石余,群馬郡内8か村・3,105石余のほか,美作国英田郡内51か村・1万279石余,同勝北郡内6か村・2,677石余,同勝南郡内3か村・1,160石余,河内国志紀郡内7か村・4,811石余,同若江郡内6か村・3,380石余があり,計3か国7郡内129か村・4万4,590石余で,その貢租収納は金1万9,500両ほどであった。また安永年間の家臣団は,改易された真田氏より約40%も少なく,最高350石の三浦外記をはじめとする家老から武具方下役までの士分339人,足軽140人の計479人で,このうち沼田詰115人・江戸詰356人・大坂詰8人となっていた。寛保2年頼熙は藩校沼田学舎を創設。なお定経の代に,貞享検地以降の見取田畑を高入して窮迫藩財政の再建を計ろうとしたが,天明元年見取騒動と呼ばれる藩領民の強訴が起き,失敗に終わった。明治維新時には,当藩は佐幕的傾向が強かったためその去就が注目されたが,慶応4年東山道総督府に恭順し会津攻めに出兵した。「旧高旧領」による藩領は,利根郡内50か村・2万686石余,群馬郡内5か村・1,252石余,美作国英田郡内51か村・1万279石余,勝北郡内6か村・2,677石余,勝南郡内3か村・1,160石余,河内国志紀郡内4か村・3,941石余,若江郡内5か村・3,033石余の計3か国7郡内124か村・4万3,027石余であった。明治4年廃藩置県により沼田県となる。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7046591 |