100辞書・辞典一括検索

JLogos

66

小野村
【おのむら】


旧国名:下総

(中世)平安末期から見える村名。下総国葛原牧のうち。香取社神領の1つ。保元元年10月の関白(藤原忠通)家政所下文に「社領葛原牧内織幡・小野両村」とあり,香取社大禰宜大中臣家の相伝所領として実房から惟房に譲与されている(旧大禰宜家文書/県史料香取)。当時,大中臣家は香取社大宮司を兼帯した鹿島社神官中臣家と所領相論を行っており,応保2年閏2月には大宮司中臣助重が関白左大臣(藤原基実)家政所下文によって「当社四至内織服・小野・綱原三箇村」の知行を認められている(香取大宮司家文書/平遺3193)。当村は,鎌倉中期まで大禰宜職とともに惟房・実員・実澄・実藤・実久と大中臣家の嫡子に相伝されたが,この間,元久~寛喜年間には中臣道助が当村と織幡村の領有を主張して争っている(旧大禰宜家文書/県史料香取)。大中臣家は実員の子の代に実澄・実広の2流に分かれ,鎌倉後期には,両流の間で大禰宜・大宮司職と当村を含む所領をめぐる相論があり,実澄流が勝訴したものの,実久の子の代になると,実政・実宗・実成の兄弟,あるいは実政子息の実親・実胤・実康・実幹らの間に同様の相論が絶えなかった(同前)。嘉元2年4月22日,実康・実秀・実胤・実幹は「香取社領葛原牧小野・織幡」以下12か村の所務について各々4分の1ずつ知行するという和与を行い,南北朝期まで当村以下の所領は分割知行された(同前)。暦応4年9月26日付千葉貞胤安堵状では「小野・織幡・葛原牧所務」の違乱停止が被官中村弥六入道(聖阿)に命じられているが,貞応年間には当村以下の神領はほぼ中村氏に押領されるに至った(同前)。貞治2年,千葉氏胤が死去して千葉一族内に動揺が生じ,これに乗じて実胤の孫長房は所領返還の訴えを起こしたが,中村式部丞胤幹は濫妨を止めず,香取社神官大中臣実秋・実持らもこれに与同,ついに香取社中に軍勢が乱入し放火に及ぶという大争論に発展した(旧大禰宜家文書応安5年11月9日付藤氏長者宣・同年11月14日付管領奉書・同11月日付長房訴状など/県史料香取)。応安7年に相論が終息すると,当村を含む大禰宜家領は長房の手に帰し,至徳年間には「おの・おりはた両村ならひニつなはらの村」が長房嫡子満珠丸(幸房)に譲与され,以後,室町・戦国期まで大禰宜家が相伝している(旧大禰宜家文書/県史料香取)。大永8年7月27日には国分三河守胤相が小野・織幡村内の田地5反を香取社に寄進しており,戦国期には千葉一族の国分氏が勢力を伸長した(同前)。当村は大中臣家の葛原牧開発によって成立し,当初は織幡村に含まれたが平安末期には分離し独立の一村となった。鎌倉期の弘長元年11月25日付葛原牧内小野・織幡地帳によれば,当村の田積は159筆32町6反余,そのうち128筆23町2反余は金丸名であった(旧案主家文書/県史料香取)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7053630