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大倉郷
【おおくらのごう】


旧国名:相模

(中世)鎌倉期に見える郷名。相模国鎌倉郡のうち。大蔵とも書く。「吾妻鏡」治承4年12月12日条に「亥剋,前武衛新造御亭有御移徙之儀,為景義奉行,去十月有事始,令営作于大倉郷也」と見え,この日,源頼朝は10月以来大庭景義の奉行で当郷に新造された屋敷への移徙の儀を行った。これが大倉御所(幕府)で,嘉禄元年12月20日に宇津宮辻子御所に移るまで,将軍の居所・幕府として政治の中心となった。「吾妻鏡」建久2年3月4日条によれば,小町大路のあたりから出火,小町にあった北条義時亭をはじめ,鶴岡若宮およびこの大倉御所も焼失した。ついで,建保元年5月2日の和田義盛の乱の際には戦場となった。和田義盛ははじめ「幕府南門并相州(北条義時)御第〈小町上〉,西北両門」を囲み,さらには「幕府四面」を囲んで攻め,ついに惣門を破って侵入した義盛の子朝夷名義秀が御所に火を放った。このため将軍源実朝は右大将家(源頼朝)法華堂に退避しており,翌3日当地には佐々木義清・結城朝光が陣をしいている(吾妻鏡)。その他,当地で起きた事件としては,建暦元年6月7日に越後三味荘の領家雑掌が訴訟のため「大倉辺民屋」に寄宿していたところ,盗人(実は三味荘の地頭代)のため殺害されたこと(吾妻鏡),天福元年8月18日北条泰時が江島明神に奉幣する日に前浜で殺人があり,武蔵大路・西浜・名越坂・大倉・横大路以下の道が警固されたこと(同前),乾元3年11月6日の大火事(日吉社并叡山行幸記/群書3)などがある。また「吾妻鏡」から,当郷内にあった御家人等の宅を知ることができる。北条義時亭(正治2年5月25日条ほか)・北条時房室の宿所(承久元年正月15日条)・後藤基綱家(寛喜元年3月26日条ほか)・周防前司親実家(嘉禎元年正月12日条ほか)・施薬院使良基家(延応元年11月20日条ほか)・足利義氏亭(宝治2年閏12月10日条)・長能大倉坊(建長4年正月12日条)・伊賀前司時家家(康元元年3月16日条)などの邸宅があったことがわかる。北条義時亭では正治2年5月25日義時の妾が男子を生み,若宮別当が加持して平産を祈っている(吾妻鏡)。また承久元年正月23日将軍源実朝の右大将拝賀の儀に下向してきた坊門忠信はこの義時亭を宿所と定め,同年7月19日京都から下向してきた藤原頼経は「右京大夫義時朝臣大倉亭〈墩内南方,此間構新造屋〉」に入御した(同前)。そして,同2年12月1日にはここで頼経の着袴の儀が行われている(同前)。その他にも承久元年10月20日には,一条実雅と義時の嫡女の婚姻の儀が行われ,実雅は「大倉家〈右京兆(義時)居所傍〉」に入っている(同前)。同3年12月3日にはこの義時の嫡女が妊娠したため「大倉亭廊」で千度の祓が行われ,貞応元年7月3日には百日小笠懸が始められた(同前)。寛喜元年3月26日京都から後藤基綱が帰着し,「大倉家」に入った(同前)。この基綱は評定衆の1人で,その家では評定が行われたり(吾妻鏡寛喜2年6月28日条),将軍頼経が渡御し,小笠懸・和歌会・猿楽などを催したりしている(同前嘉禎元年2月9日条・寛元元年9月5日条)。一方,当郷内には多くの寺社があった。また「吾妻鏡」建久2年9月18日条によれば,大倉行事の草創した「大倉観音堂」に参詣した源頼朝は,たいへん荒廃していたので,その修理のため准布200反を奉加した。以降頼朝の信仰は篤く,建久4年9月18日には大姫の病気平癒のため「岩殿・大蔵両観音堂」に参詣,同5年2月18日にも参詣している(吾妻鏡)。建久元年5月15日,「大蔵山」が震動し樹木が多く倒れた(同前)。翌2年2月15日,源頼朝は寺院(のちの永福寺)を建立する場所を探すためこの「大蔵山辺」を歴覧,翌3年正月21日頼朝は工事を見物,11月20日に営作の功が終わり,11月25日に永福寺供養が行われている(同前)。そして翌4年11月27日に永福寺薬師堂供養が行われている(同前)。この永福寺は,文治5年の奥州合戦の際,「合戦無為之後,鎌倉中可草創伽藍之由,有御立願」として計画された寺院で,源義経・藤原泰衡らの怨霊をなだめるため(同前宝治2年2月5日条),中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して造られたので二階堂と称された(吾妻鏡文治5年12月9日条)。これが地名の二階堂の起こりで,はじめ永福寺周辺を指していたが,徐々に広がり,近世には二階堂村となり,逆に大蔵の地名は雪ノ下村の小名に「大蔵町」が見えるだけである(新編相模)。また3代将軍源実朝の代には大慈寺が建立されている。「吾妻鏡」建暦2年4月18日条によれば,「為将軍家御願,大倉郷ト一勝地,令経始一寺給,今日午剋立柱上棟也」とあり,目的は君恩父徳に報いるためとある。同年7月23日惣門が建てられ,建保2年4月21日新造の金剛力士像がこの惣門に安置され,7月27日に「大倉大慈寺〈号新御堂〉」の供養が行われた(吾妻鏡)。現在鎌倉市十二所(じゆうにそ)にある明王院の東側一帯がその旧跡で,当時この付近も当郷内であったことが知られる。建保6年7月9日北条義時が「大倉郷」に渡り,南山の際に便宜の地を卜して1堂(のちの覚園寺)を建立して薬師像を安置した(吾妻鏡)。同年12月2日にはこの「大倉新御堂」で雲慶作の薬師如来像を安置して供養が行われている(同前)。また,「吾妻鏡」貞永元年10月2日条に「為将軍家御願,可被建精舎於大倉事」と見え,五大堂(明王院)建立の日時定が行われ,10月2日には造営地として「大倉観音堂像」の大多和左衛門尉の地頭である所を点じたが陰陽師らが不快としたため,改めて10月22日に「毛利蔵人大夫西阿領大倉奥地」と定め,嘉禎元年6月29日に「明王院〈五大尊堂〉供養」が行われた(吾妻鏡)。ついで仁治元年10月19日には「大倉北斗堂」の地曳始があり,翌2年8月25日に供養が行われている(同前)。そのほか,仁治3年8月1日の聖教奥書に「鎌倉大倉之阿弥陀堂」(金沢文庫古文書/県史資1‐242・243),北条貞時十三年忌供養記元亨3年10月26日条に「霊山寺」(円覚寺文書/県史資2‐2364),「鶴岡八幡宮社務職次第」に「大倉熊野堂」が見える(群書4)。なお,当地では宝治2年5月9日の愛染王奥書に「於関東大蔵鈔畢」とあるのをはじめとして(昭和現存天台書籍綜合目録下),数多くの仏典・典籍が書写されているが,とくに建長2年6月17日から同7年2月5日にかけて尊澄は文殊五字・安鎮・胎灌記・千手・馬頭・聖観音・七仏薬師など多数の経典を書写し,奥書に「大蔵」あるいは「大蔵谷」と記している(同前上・下・補)。南北朝期の建武元年8月3日の一色頼行寄進状によれば,「上総国北山辺郡森郷内藤大夫名〈田地六反半・畠壱反〉」が仏餉灯油料として「相模国鎌倉大蔵南小路聖天堂」に寄進され(法華寺文書/県史資3上‐3180),同4年7月14日の沙弥道光奉書では「鎌倉西御□(門)大蔵・杉⊏⊐(谷郷)二ケ所」が円覚寺伝宗庵定照院に寄進されている(黒田太久馬氏所蔵文書/同前3336)。また,同4年2月6日の慶舜請文写によれば「大蔵稲荷供僧職」について讃岐律師御坊覚胤を推挙し,所領の得分・布施等については3分の1を慶舜一期の間拝領としている(相文/同前3321)。その後室町期の応永30年6月25日,鎌倉公方足利持氏はこの「大蔵稲荷社領所々」における軍勢甲乙人の乱暴狼藉を停止し(鶴岡神主家伝文書/同前5677),正長4年4月27日には「大蔵稲荷社神主職」を大伴持時に還付している(同前5859)。永享6年6月5日の蘆名盛政譲状によれば,所領を子息盛久に譲与しているが,不知行地の1つとして「鎌倉屋地〈一所大倉尺迦堂谷,一所亀谷石切〉」が見える(楓軒文書纂/県史資3上‐5893)。ついで同10年の永享の乱の際,10月3日足利持氏の命をうけて鎌倉を守護していた三浦時高は本領三浦に帰り,同17日上杉憲実に応じて鎌倉へ攻め入り「大蔵犬懸等」へ火をかけ,11月1日には「大蔵の御所」を攻めている(永享記/続群20上)。下って戦国期の天正15年12月13日の建長寺寺領坪帳案に「五十三坪 大蔵 百五十六文 当年貢 七十文 太郎左衛門」などと見え,当地に建長寺領があったことが知られる(建長寺文書/県史資3下‐9328)。現在の鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目・浄明寺・十二所一帯に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
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