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洲崎村
【すざきむら】


旧国名:相模

(中世)室町期~戦国期に見える村名。相模国鎌倉郡のうち。須崎とも書く。地名としては南北朝期から見え,「梅松論」に「武蔵路は相模守守時,すさき千代塚にをいて合戦を致しけるが,是もうち負て一足も退ず自害す」と見え,元弘の乱の際北条守時は新田義貞方に攻められ,当地で自害している(群書20)。このことは「桓武平氏系図」北条守時の項(続群上)に「相模守於洲崎自害,元弘三年五月日慈光院,法名道本」とあり,「太平記」巻1の赤橋相模守自害事付本間自害事の項にも見える。下って,「空華日用工夫略集」永和2年正月17日条に「乃転路自洲崎而帰」と見える。宝徳2年12月日の相模国北深沢郷年貢算用状案に「一,色々残……伍百文 洲崎茶跡畠分」「阿田祢残分,依乱一円ニ不納,作人洲崎百姓家亡焼,被散間如此」とあり,当地には円覚寺黄梅院の支配が及んでおり,茶畑や百姓家が点在していたことが知られる(黄梅院文書/県史資3下‐6112)。ついで享徳元年12月,長禄2年12月にもほぼ同様の年貢算用状が作成されている(同前6145・6265)。また「鎌倉年中行事」には「藤沢炎上之時,公方様洲崎まで御出」と見える(新編相模)。村名としては「香蔵院珎祐記録」長禄4年7月条に「北深沢郷内台・州(洲)崎両村知行衆廿一人在之処ニ,自横(黄)梅院下地被渡以後者,代官ハ長尾伯州披官篠原代官被⊏⊐者也」と見え,北深沢郷台・洲崎両村の下地は黄梅院から香蔵(象)院に返されたが,長尾伯耆守の被官篠原をはじめ細川方の被官クラヌキや如意院慶運などが代官となっていたことが知られる。そこに,狩野五郎が両村の代官職を望んだところ,如意院および執行方会所正覚院から申し入れがあり,閏9月になっても決着がつかなかった(神道大系)。下って天文16年11月21日の北条氏康判物に「前々寺領之由候間,須崎大慶寺分進置候」と見え,武蔵国比企郡三保谷の養竹院(現在の川島町にある)にいた奇文禅才に当地の大慶寺分を寄進し,大慶寺に入るよう要請している(帰源院文書/県史資3下‐6848)。「新編相模」によれば,この大慶寺は鎌倉郡寺分村内字雪の沢にあり,小田原北条氏の保護を受けていたという。戦国期の「役帳」には他国衆養竹院の所領役高として「四拾七貫文 同(東郡)須崎大慶寺分」と見え,また玉縄衆川瀬某の所領役高として「六拾五貫文 東郡須崎あたみ 此度改而,知行役可申付」,松山衆太田豊後守の所領役高として「百拾六貫廿二文 東郡須崎梶原分」とも見える。須崎の範囲としては,「あたみ」が江戸期の山崎村の小名であることから,梶原付近まで含む地域であったことが想定される。その後,永禄9年7月22日の北条氏政判物で「須崎大慶寺分」が円覚寺帰源庵に安堵され(帰源院文書/同前7501),同年8月日の大道寺資親書状で「御寺中似合之修造,御心懸肝要ニ候」と帰源庵に命じている(同前7503)。永禄10年10月16日の釈迦如来像胎内銘に「相州小坂郡深沢郷須崎村,霊松山大慶禅寺」とあり,永禄6年に炎上したがこの年にようやく大慶寺の堂宇再造がなり,奇文禅才(円覚寺54世)がこの仏像を造立した(同前7572)。元亀4年7月26日の玉縄城主北条氏繁書状によれば「須崎大慶寺分へ前々之役之外,近日様々申由候……前々役外不可有御承引候」とあり,当地の諸役負担は一定のもののみに限られていた(同前8177)。ついで天正12年12月12日には北条氏直が改めて寺領を安堵しており(同前9038),また「須崎寺分之山林竹木」を切り取ることの停止が命じられている(同前9039)。なお,「新編相模」鎌倉郡寺分村の項には,寺分の地名の由来として「当村古は大慶廃寺の域内たりしを以て大慶寺分と云しを上略して今の地名となりしならん」と記しており,現在の鎌倉市寺分・梶原・山崎一帯に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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