平子郷
【たいらこのごう】
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旧国名:武蔵
(中世)鎌倉期~戦国期に見える郷名。武蔵国久良岐(くらき)郡のうち。初見は貞永2年4月15日の将軍家政所下文で,「武蔵国久良郡平子郷内石河村」等の地頭職が平□□(経久か)に安堵されている(諸州古文書/県史資1‐320)。「吾妻鏡」文治元年4月15日条に源頼朝が関東御家人の任官をとがめた記事があるが,その交名注文中の「馬允有長」とは平子有長のことで,南北朝期の成立とされる「小野氏系図〈横山〉」にも「有長〈平子野平馬允 富士夜討時被疵〉」と見え,兄有長が平子郷を領し弟経長は平子郷内石川村を領していたものと思われる(続群7上)。応永21年5月13日の権大僧都快尊宝生寺別当職補任状写には「熊野堂領武州久良郡平子郷内石河村宝生寺別当職」と見え(武文/県史資3上‐5475),応永24年8月の日英末寺等支配注文にも「末寺講演職等事……同(武州)平子講演旦那等」とある(法宣寺文書/同前5539)。また宝徳2年7月2日の宝生寺住持円鎮寄進状には,「武州久良郡平子郷内禅馬之村……根岸村」とあり,寛正4年5月9日の円鎮百姓年貢銭寄進状に「平子郷根岸村」と見える(宝生寺文書/同前3下‐6094・6289)。その後,文明5年5月9日の真照寺円鎮田畠譲状にも「平子左衛門重道自京都被下候て,如本当寺被渡候,其已後又平子若狭守政重成寺領候」とあり,この時期に至っても平子氏は当郷の支配を保持している(同前6321)。文明8年9月15日の河内兼吉山寄進状で「平子郷石河村堀之内談所之向彦九郎山」を宝生寺に寄進した河内太郎左衛門尉兼吉も,平子氏配下の土豪であろうと思われる(宝生寺文書/県史資3下‐6351,横浜市史1)。文明10年2月日太田道灌禁制では,「武州久良木(岐)郡平子郷於石川談義所,当手軍勢濫妨狼藉事」を禁じている(宝生寺文書/県史資3下‐6356)。長享3年7月25日の法印覚日譲状に,「平子郷石川宝生寺」と見える(同前6389)。永正9年12月6日の宗瑞(北条早雲)・伊勢氏綱連署制札案写は「平子牛法師丸(房長)」宛に「本目四ケ村制札」を定め,諸奉公も直接に命令するとして他所の勢力の介入を防ごうとしている(歴代古案4/県史資3下‐6507)。これは小田原北条氏の勢力が当郷にまで及んできたことを示し,また平子氏の所領が存続していたことを物語るが,すでに平子郷の呼称に代わって「本目(牧)」が見える点は注目される。永正13年の三浦氏の滅亡,大永4年の江戸城攻略による上杉氏勢力の後退によって平子氏も当郷を失ったようで,当地域は北条氏の支配に属し本牧郷となり,それとともに平子郷という呼称も消滅する。当郷の地域内には,石川村(江戸期には堀之内・中村・横浜)・根岸村・禅馬(岡村・滝頭を含む)・本牧(ほんもく)(北方を含む),さらに弘明寺(ぐみようじ)・中里・最戸・久保・別所・井土ケ谷あたりが含まれており,旧久良岐郡全域にわたる可能性も考えられ(横浜文書について/横浜文書),現在の横浜市中区・南区東部,磯子区北部,港南区の北東部などに広がる地域に比定される。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7067739 |