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北国街道
【ほっこくかいどう】


近世期の街道名。佐州三路の1つ。信州通り・信濃路・北国道・北国往還などとも呼ぶ。中山道の信州追分宿(長野県軽井沢町)から分岐し,小諸・上田・善光寺・柏原・野尻を経て,越後に入り,関川関所を過ぎ関川宿をはじめ,田切(中頸城(なかくびき)郡妙高高原町)・関山(同郡妙高村)・松崎(同郡中郷村)・荒井(新井市)・高田・春日新田・黒井(以上上越市)・潟町(中頸城郡大潟町)・柿崎(同郡柿崎町)・鉢崎・鯨波・柏崎・宮川・椎谷(以上柏崎市)・石地(刈羽郡西山町)・出雲崎(三島(さんとう)郡出雲崎町)など20宿があった(越後内のみ)。出雲崎から船で佐渡の小木(小木町)に渡った。古くから開けた街道で,文永年間,佐渡に流された日蓮もこの道を通り,鎌倉から越後寺泊まで16日を要した。戦国期には上杉氏の信濃出兵の道で,天正3年謙信が荒井町の問屋和田六右衛門に伝馬宿送を命じている。近世の街道としては,慶長15年松平忠輝が福島(上越市)に入部し,領内交通政策を積極的に展開したため大いに整備された。北国街道は三国街道・会津街道とともに佐渡産金銀の輸送路として重視されたが,なかでも運輸の安全性から,北国街道がもっとも多く利用された。寛永年間以後,加賀・越中・越後諸大名の参勤交代路として重視され,25人・25匹の公用人馬が置かれた。また,越後の米,今町(直江津)から信濃に送られる塩・海産物,逆に信濃から今町へ向かう麻・綿・タバコなど商業物資の運送路としてにぎわった。しかし,冬期には豪雪に見舞われ,荒井から野尻にかけては駅馬が使えないこともしばしばで,馬1匹分の荷を人足4人で背負うなど,苦労の多い道中でもあった。特に加賀藩前田氏の通行は士分180人・従卒600人の大行列のため高田宿で駅馬185匹・宿継人足285人を調達しなければならないなど,助郷役が容易ではなかった。江戸期は五街道のほかはすべて脇街道と呼ばれたが,当街道は脇街道中でも伊勢路・中国路と並ぶ重要街道であった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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