大手町
【おおてまち】
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(近代)明治初期~現在の町名。はじめ金沢町,明治22年からは金沢市の町名。金沢城の大手口にあたる地。古くは大手先,大手口,尾坂下,小坂(おさか)口,小坂下とも称した。大手先とは城の大手口の出先の意である。この大手口は金沢御堂の時代以来正門であったとする説と佐久間盛政の天正8年から11年の間は西町(にしちよう)口に変更され,前田利家の入城後,再び正門となったとする説がある。尾坂下・小坂口・小坂下とは城下北東部の河北(かほく)郡小坂荘の方角に面していたことに起因する。近世初期には町地となっていたが寛永12年の大火を機に町家を退去させ,大身の藩士の屋敷地とした。「元禄六年士帳に,前田駿河守・津田玄蕃守の第宅所付を大手口と記載せり」(古蹟志)。「嘉永年間侍帳」には佐藤丈五郎(1,200石)・松平玄蕃(4,000石)・前田美作守(1万8,000石)・成瀬主税(2,500石)・津田内蔵助(1万石)の住所を,いずれも「尾坂ノ下」と記す。延宝の金沢図に見える加賀藩の重臣八家(はつか)の1つ前田孝貞対馬守の邸地は大手堀に面した前口61間4尺・東側73間1尺・西側65間8尺5寸・北側63間2尺,広大な邸地の中には100を超える部屋数をもった837坪の主屋があった(金沢図屏風)。その後西に62間8尺×40間ほどの敷地を加増され廃藩まで続いた。前口45間5尺8寸の津田玄蕃邸は天正11年には片岡孫兵衛の邸地があった所で,寛永13年町割替の時,片岡氏が移転させられてから寛文元年津田氏に与えられるまで空地であったところ。明治3年に金沢藩の医学館が開校された。藩政期には城の大手を堅めた各邸も明治初期に,売却撤去され,寛永前の町地となり,大手先の地名にちなんで大手町とした。範囲は明治13年脱稿の「皇国地誌」に「博労町ノ南頭ヨリ東ニ折レテ蔵人橋ニ達スルマテヲ云フ。四町六間許,幅広キハ壱拾間狭キハ六間」と記す。もっとも蔵人橋より1つ大橋よりの稲荷橋(下胡桃(しもくるみ)町と味噌蔵(みそぐら)町片原町の間)の橋詰にあった御普請会所が大手町の末とする説もある(古蹟志)。大正5年の「稿本金沢市史」には,道路が三線あるとし,一本のうち蔵人橋に至るまでは「皇国地誌」と同じながら「西方中間に曲折して,梅本町西横町の界に達せり」とする。また,尻垂(しりたれ)坂通3丁目の南頭から百間堀を通って,紺屋坂から百間堀沿いの道と出羽1番丁で境し,さらに2線並行して広坂通・仙石(せんごく)町に達するとして,城の東南部から西部にかけての外周部一帯を総て大手町と記す。この間の町割変更等は不明。大正5年の戸数107・人口364,昭和30年の世帯数116・人口602。同38年豪雪のため県スポーツセンターの屋根のうち75%にあたる2,289m(^2)が倒壊した。昭和39年一部が丸の内・兼六町となる。同41年住居表示を変更し,博労(ばくろ)町・味噌蔵町片原町・味噌蔵町下中丁・中町・兼六通3丁目・上胡桃町・殿町の各一部と梅本町・梅本町東横丁・梅本町西横丁・下胡桃町を編入。同45年の世帯数262・人口1,033。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7086043 |