100辞書・辞典一括検索

JLogos

28

本吉町
【もとよしまち】


旧国名:加賀

(近世)江戸期~明治2年の町名。加賀国石川郡のうち。手取川河口に位置する。もとは藤塚といい,現在も藤塚山王社がある。明応8年,藤塚村と羽佐場(はさば)村を合併し,山王社の別当元吉寺の号をとって名づけた。承応元年佳字をとって本吉と称した(石川郡誌)。加賀藩領。江戸期に入ると手取の流路も安定し,河口は船溜りとして利用され,停泊する船も次第に増加し,浦方奉行が置かれた。承応元年には,本吉町奉行が置かれ町立てとなった(石川郡誌)。寛文年間には南町・中町・北町の3町家数217戸があったが,延宝年間になると新町・永代町・今町・神幸(じんこう)町・浜町の5町が増加,元禄年間には末広町・和波町が加わり10町となる。享和3年には家数1,017に達した(美川町近代産業史)。寛文10年村御印の村高575石,免7ツ,鮭役545匁・鱒役59匁・外海引網役309匁・外海船櫂役3貫18匁・猟船櫂役182匁5分・尻巻網役60匁・六歩口銭75匁・九分三分口銭308匁。江戸中期には,年間の出入船舶数が1,500に及び,その船税額は加賀第一の港町として繁栄した。竹内屋・古酒屋・明翫屋・清水屋・上野屋・川原屋・角屋などの回船問屋が軒を連ね,和船の造船所もあった(美川町文化史)。しかし浜風が強い所に人家が密集し,町を貫流する河川がないためにしばしば大火に遭った。宝暦8年には全町が焼失し,安永6年には,300戸が全焼,天保5年には,1,046戸が焼失し,残ったのは26戸という状況であった。文久元年火消組が初めて設けられた(美川町近代産業史)。文久3年の戸数1,187・人口4,661(石川郡誌)。天保7年に米1升が173文に高騰,200人余の窮民が浜町の米小売商新村屋仁左衛門家,片町の紺屋三郎兵衛・紺屋又助・明翫屋伝兵衛の家を打毀した。事件後,首謀者が摘発できず,町年寄とその見習の2名が免職されたにとどまった(続漸得雑記)。幕末には岡田・米光屋・小川・竹内・松任屋などの寺子屋があり,また開道館が真言宗世尊寺内に設けられた(美川町史)。本吉港は,加賀米の移出港として,肥料・海産物・木材などの移入港として栄えたが,江戸中期ごろに手取川は現在の流れに近い1本の主流となり,次第に土砂の堆積が増し,深刻な問題を生じた。船の出入が困難になり,港もさびれ,港に依存して生活している多数の者も生活が苦しくなっていった。文化11年冬期,港内に係留した船舶60。文化14年には30と減少し,200石以上の船が他所へ行く状況であった(美川町文化史)。明治2年,能美郡湊(みなと)村と合併し美川町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7090150