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浦底
【うらそこ】


旧国名:越前

古くは「底の浦」と書いて「そこのうら」ともいわれたらしい(敦賀志)。敦賀半島北東部に位置する。東は蠑螺ケ岳(さざえがたけ)の東北嶺にあたる。西には小湾を隔てて明神崎がある。この明神崎の東に水島がある。明神崎は,小半島を形成しており,この半島を明神山ともいい,この呼称は浦底・色浜両地区が祀る鹿島大明神があることによると伝えられる。当地では島山ともいい,両地区の立会山となっている(浦底区有文書)。この明神崎の付け根に猪ケ池がある。立石との境近くにあり,周囲が110mほどあり,禁猟区で野鳥・水鳥の安息地となっている。ここも両地区の共有地である。妙泉寺には30基を超える市内最大の笠塔婆群があり,最古銘は応永8年。天正18年2月6日,色浜・浦底両浦は敦賀湾対岸の赤崎の左衛門二郎に「島山・とちの木ひら弐ケ所」の利用権を毎年米3斗で認めており,両浦入会地の存在が知られる(色浜区有文書)。文禄4年11月8日には両浦入会地について色浜惣中と浦底惣中との間で,「島手両壱本ニ相たて」ること,どのようなことがあっても両浦として対処すること,「そてのあみ」は浦底から立て,もし新たに「島手万之事」を懸けられたら両浦として立てることの3か条を申し合わせている(同前)。慶長3年の浦底浦検地帳写(浦底区有文書/敦賀市史史料編)によると,当浦の田屋敷3町5反余,分米51石5斗4升で,うち8反近くを色浜の5人が名請けしている。慶長国絵図では色浜浦の一部。
浦底浦(近世)】 江戸期~明治22年の浦名。
浦底(近代)】 明治22年~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7091222