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小浜藩
【おばまはん】


旧国名:若狭

(近世)江戸期の藩名。譜代中藩。慶長5年関ケ原の戦のあと近江大津から京極高次が入封して成立。領知高は若狭国3郡8万5,000石余,翌年近江高島郡内に7,000石加増された。高次は,それまでの後瀬山城を廃し,北川と南川に挟まれ小浜湾に臨む雲浜の地に築城するとともに城下町を建設し,慶長12年に一応成就しているが,在々より屋敷を建てるものが多く,このとき41町,戸数1,237を数え,港町としても敦賀とともに重要な位置を占めることになる。また重臣の多賀越中を佐柿に,佐々義勝を高浜に配して国境を固めた。寛永元年忠高のとき,前年の福井藩松平忠直改易によって幕府領となっていた越前国敦賀郡2万1,500石余を加えられて11万3,500石余となり,領域が確定したが,敦賀が小浜藩に与えられたことはこののち大きな意味をもつことになった。同11年京極氏が出雲松江24万石に転封したあとへ,武蔵川越から老中酒井忠勝が入封して酒井氏の小浜藩が成立。高島郡の7,000石は,「上京の折の路次の便りとして」の意味をもったという(寛政重修諸家譜)。以後藩主は忠直―忠隆―忠囿―忠音―忠存―忠用―忠与―忠貫―忠進―忠順―忠義―忠氏―忠禄(忠義再封)と交代し廃藩に至った。忠勝は,同13年「在府の料」として下野国安蘇・都賀2郡のうちに1万石を加増されて12万3,500石となったが,寛文元年忠直のとき敦賀郡の所領が安房国平群郡(のち平郡)に移された。所領は同4年の領知目録によると,若狭国では大飯郡が74村1万9,870石余,遠敷(おにゆう)郡が111村4万2,461石余,三方郡が56村2万3,128石余,越前国敦賀郡に59村2万1,196石(うち幸若領100石あり),近江国高島郡のうち15村7,001余,関東には下野国安蘇郡のうちに5村5,482石余(佐野領といった)と安房国平群郡(勝山(かちやま)村あり)のうちに19村7,302石余があった。同8年忠国に1万石(勝山藩),天和2年忠隆のとき忠稠に1万石(鞠山藩),忠垠に3,000石(井川領)とそれぞれ分知したので,貞享元年の領知目録では大飯郡が1万9,970石余,遠敷郡4万3,030石余,三方郡2万5,280石余と2,821石ほど増加しているが(村数は3郡とも同じ),これで井川領への分知分3,000石が補われた。また敦賀郡が泉・津内・舞崎・余座・樫曲・刀根・新道・疋田八箇・道口・坂下・長沢・堂・山泉村之内・金山・櫛川・二村浦・名子・縄間・沓・手・色浜・浦底・島之郷・木崎村の24村7,784石余,高島郡が6村2,009石余と減り,関東では安蘇郡は変わらなかったが安房国の所領が消滅し,計10万3,558石余となった。元禄11年忠囿のとき安蘇郡の所領が,越前国今立郡の高木・横越・東鯖江の3村4,374石余と同南条郡塚原・八乙女・社谷・中津原の4村1,107石余に替えられ,関東の所領が消滅した。享保6年には鯖江藩との領知替により東鯖江村が鯖江藩領となり,代わりに別司・小坂・寺中・北中津山の4村が与えられ,今立郡内の所領は6村となった。今立・南条郡の10村は「新御領」ともいわれたが,敦賀郡・上中郡の郡奉行が支配し,元文3年からは敦賀代官が10村の代官を兼帯することになった。この10村は,忠音の大坂城代就任により享保12年摂津国有馬郡内に移されたが同14年には旧に復し,忠義のとき文久2年1万石が加増されているが間もなく収公されたので,享保6年以降藩領に基本的には変化がない。なお享保12年以降の領知目録から遠敷郡が122村,敦賀郡が41村とされるが,敦賀郡の場合上記24村のうち津内村が津内町(宮内村とも)・新津内村に,樫曲村が樫曲村(深山寺村とも)に,疋田八箇村が疋田村にそれぞれ変わったほか,金山村の枝郷関村と市ノ野村が加わり,さらに島之郷が消えて新田・今屋敷・河原・麻生口・野上・一本松・今浜・徳市・追分・駄口・奥麻生・山中・市橋・小河口・松中村が加えられたことによるのであり,いずれも分村や表記上の変化に属し,実際の増石があったわけではない。忠勝は寛永15年大老となるが,以後の歴代藩主も幕閣で要職を占めたので在府・在京(坂)のことが多く,これが藩政に大きな影響を与えた。50石以上の知行取家臣とその知行高合計は寛永14年234人で6万1,833石,万治元年246人で5万4,570石(小浜4万2,120石・江戸1万2,450石),寛文7年354人で8万9,485石(小浜254人・6万7,225石,江戸100人・2万2,260石),知行取以外は万治元年に扶持米取約270人・3,300石,足軽601人・5,098石,水主14人・107石,中間390人・1,988石,郷中間225人・450石,歩行59人・金240両,江戸足軽221人・639石・金379両,江戸中間166人・126石・金290両・銀265匁,そのほか京都や大津の足軽などに144石などがあった(分限帳/小浜市史)。藩主の在府が多く,それにともなって江戸詰の家臣も多かったので,江戸入用も増えたが,そのためもあって在府料が関東で与えられたのであり,それらは1~2万両に及ぶ国許からの送金と佐野領の年貢によってまかなわれた。歳入を寛文初年でみると,正租6万1,000石,小物成が2,000石と銀150貫(米にして5,000石),敦賀の駄別と小浜の沓代が合わせて300貫(米にして1万石),米仲・茶仲が70貫余(米にして約2,500石)と推定され,米に換算して約8万500石となる。正租のうち3万石ほどが家中への物成や扶持米に支出されたので,残る5万石のうち25%ほどが駄別以下によってまかなわれたことになり,敦賀と小浜が果たした役割が知られるのである。それだけに寛文12年河村瑞軒によって西廻り航路が開かれると,北国米をはじめとする上せ荷が直接大坂へ廻送されるようになり,駄別などの収入が減少していった。また正租収入も頭打ちになったこともあり,寛文初年まで良好であった藩財政も徐々に悪化し,延宝2年には早くも借知を実施せざるをえなかった。寛永末年の飢饉を切り抜けたあと,寛文12年には大地震に見舞われた。これによって三方湖周辺の1,700石余が水面下に没したが,行方久兵衛の指揮のもと浦見川の掘削にとりかかり,人足延べ22万5,000余人,扶持米3,000俵・銀99貫目余を費やして同4年に成就,生倉村367石余と成出村395石の新村が生まれた。延享元年には領内4か所に社倉が設けられた。近世初期の代表越訴型一揆の典型として著名な松木長操の一件については,不明な点が多いが,明和年間以降大きな一揆が4回起こっている。明和7年無尽講の中止を要求した敦賀郡小浜領の一揆は,要求を全面的に認めさせるとともに町奉行以下を免職させ,農民側には1人の処罰者も出さなかった。次いで天明3年小浜,同4年敦賀で打毀が起こった。小浜では数千人が米商人を襲い,蔵米6,000俵の拝借を認めさせたが,2人が処刑された。敦賀では小浜領以外の人々も加わって数千人が参加し,米を買占めたとされる8軒を打ち壊したが,頭取3人のうち2人が死罪,逃亡した1人は永尋となった。天保4年には小浜で打毀が起こった。名田庄村からの1,000人ばかりが小浜へ押し寄せてたちまち広がり,米商など10軒を打ち壊したが,藩は鉄砲で鎮圧し29人を射殺,83人を入牢させたかわりに,蔵米1,000俵を放出し,米価も1俵40匁に下げている。なお文政8年に起こった敦賀郡疋田村の入会山をめぐる騒動では,藩の扱いが長びいている間に村民が騒動に及んだが,同11年死罪4人,国払4人,郡払2人,牢舎5人,手錠4人,押込5人,残る村民全員叱りという厳しい裁許が行われており,1村限りの騒動に対するものとしては珍しい厳罰であった。藩校は安永3年順造館が設けられているが,むしろ「拾椎雑話」の木崎惕窓や「稚狭考」の板屋一助らの町人学者や国語学の東条義門,三方郡河原市(かわらいち)村の庄屋で「耕作早指南種稽歌」「農業蒙訓」を著した伊藤正作らに注目されるものがある。杉田玄白や中川淳庵は江戸詰の藩医,伴信友は小浜で生まれたが江戸詰の伴家に養子に入り主として江戸で活躍した。人口は延宝7年10万6,811(うち家中男女5,082),天保5年10万6,777,同11年9万4,707で天保飢饉の影響が知られる。安政5年井伊直弼のもとで京都所司代に再任された忠義は,上洛した老中間部詮勝(鯖江藩主)とともに安政の大獄を指揮し,旧藩士梅田雲浜らを弾圧したが文久2年免職となり蟄居を命じられた。元治元年12月4日水戸天狗党の一統が越前に入り,11日には領内に入ったので,諸藩兵とともにこれの追討軍に加わった。なお一統は慶応元年2月敦賀で処刑されている。戊辰戦争では,鳥羽・伏見の戦で敗れたあと,北陸道鎮撫使の先鋒となって奥羽を転戦した。「藩制一覧」によれば,草高10万6,599石余,正租米13万102俵余(4斗入),敦賀道ノ口通荷運上5,210両,諸雑租2万1,066両余,諸産物として塗物(若狭塗)代564両,葛90貫,蝋燭1万4,576貫余,釘8,750箇,油1,239石余,魚漁代2万5,469両余,銅(野尻銅山)130箇,石灰33万4,737俵,生糸1,305貫余,戸数2万3,886(士族475・卒族249)・人口10万5,957(士族4,237・卒族1,975)。明治4年小浜県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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