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勝山藩
【かつやまはん】


旧国名:越前

(近世)江戸期の藩名。家門・譜代小藩。寛永元年結城秀康の五男結城(松平)直基が3万石に封じられて成立。同12年直基は大野に移り,あとに弟直良が木本2万5,000石から3万5,000石(福井藩御年表など3万石説あり)で入ったが,直良も正保元年大野へ転じたため廃藩。あとは「勝山御領分」と称して福井藩にしばらく預けられたが,貞享3年幕府領となり勝山に代官所が置かれた。元禄4年都筑長左衛門と諸星内蔵助・平岡吉左衛門の3代官がいたことが知られる。松平氏3万5,000石時代の藩領は,「佐子郷帳」に「大野郡之内勝山領」,「正保郷帳」に「勝山御領分」(松平万千代御預ケ御蔵入)と記されているものに相当すると思われるが,いずれも大野郡は勝山町以下,滝波・郡・猿倉・下毛屋・猪野・北市・三谷・北片瀬・南片瀬・上高島・畔川・伊波・新在家・田名辺・布市・竹林・清水島・浄土寺・寺尾・五本寺・暮見・黒原・牛ケ谷・薬師神谷・合月・栃神谷・井野口・平泉寺・笹尾・竜谷・聖丸・松田・別所・細野・野津俣・新保・松ケ崎・深谷・志比原・檜曽谷・森河・堀明中清水・宮地・妙金島・伊知地・東野・坂東島・岩屋・細野口・谷・木根橋・杉山・中野俣・小原・皮合・六呂師・横倉・中尾・島・牛首・風嵐・女原・深瀬・釜谷・下田原・五味島・丸山・二口・鴇ケ谷・瀬戸・杖・小原・須納谷・新保・若井野・大渡・萩ケ野・石谷・大月・壁倉・不動堂・花房・岩ケ野・大矢谷・小矢谷・池ケ原・松丸・森本・六呂師・猪野毛屋・下高島と御領村168石のうちの141石余の93村3万1,344石余。丹生北(丹生)郡は「佐子郷帳」では「織田領」として,道口・厨(茂原を含む)・小僧原・中野・杉本・下川原・樫津・開発村のほか大王丸村159石余のうちの3石余と頭谷村92石のうち22石余の10村3,259石余,吉田郡光明寺村(佐子郷帳は大野郡に入れる)であった。元禄4年小笠原貞信が美濃高須から2万2,777石で入封して再興され,信辰―信成―信胤―信房―長教―長貴―長守と続いて廃藩置県まで存続した。所領は天明8年の領知目録によると,元禄11年蕨生・六呂師・勝山の検地によって打出した416石余の改出があるが,勝山町以下滝波・郡・猿倉・伊波・新在家中・布市・竹林・清水島・黒原・聖丸・松ケ崎・深谷・西妙金島・下毛屋・猪野・猪野毛屋・三谷・北片瀬・南片瀬・畔川・浄土寺・井野口・平泉寺・笹尾・壁倉・小矢谷・池ケ原・坂谷六呂師・大月・森本・不動堂・萩ケ野・花房・七板・蕨生・橋爪・蓑道・下唯野・木落・落合・堂島・柿ケ島・牛ケ谷・竜谷・坂東島・岩屋・細野口・谷・中野俣村と,御領村168石余のうちの27石余と東野村1,056石余のうち230石余の1町51村であった。なお朱印高のほかに,諸役銀14貫886匁余,夫米などが507石余,糠555俵,藁1,610束余,生炭11俵,下々綿830匁があった。貞信は,家臣を連れてきたが,入封を機会に家臣567人の知行を削減したり暇を出すなどして歳出を押さえたが,それでもこの年の給禄は5,063石余と839両にのぼった。そのため厳しく増徴したとみられ,たとえば元禄元年と同5年の毛付免をみると,勝山町で28.5%から40.5%に,猿倉村では39.3%から50.6%に上昇しており,幕府領との相給であった御領村の百姓も同5年免が10%余り上昇したとして,「御代々之御積,御公領之御免御積」を要求するところがあった(伊藤家文書)。かくて農民の激しい抵抗にあい,元禄10年には年貢減免などを求めて江戸への越訴が行われた。減免はならなかったが,用捨引の容認のほか,年貢の分割納入,藩借用米金の年賦返済などの要求を通し,しかも1人の被処罰者も出さなかった。さらに同12年にも同じような江戸越訴があり,明和8年検見に反対してこれを撤回させ,こののち天明6年,寛政5年,同8年,同9年,文化8年,文政11年,天保3年,同7年と一揆・騒動が起こっている。このうち文化8年のものは大杉沢騒動ともいわれ,美濃郡上藩領や幕府領の者も加わって最高2,000人が勝山町に押しかけ,打ち壊された商人は22人に及んだ。文政11年のものは郡上藩領野津又村から起こり,鯖江藩領・福井藩領・幕府領など41村が参加し,勝山町へ押し寄せようとしたが,首謀者が処罰されて失敗した。明和年間頃の領内諸村の免は,最高44%,最低4%,平均29.7%であった。領内戸口は,元文3年高持1,116軒・水呑1,435軒・その他5軒,1万1,444人,安政5年には高持1,513軒・水呑1,613軒・その他5軒,1万5,871人であった。天保11年家老になった林毛川(名は芥蔵)が藩政改革を行った。同14年読書堂を成器堂と改め有力な商人や農民の子弟にも入学を許した。嘉永6年には町年寄格などを元締として煙草改会所を設置し,領内産の煙草の勝手売りを禁じ,会所に集めて京・大坂への直売りを始めた。煙草改会所は安政4年には産物改会所と改められ,糸や菜種なども扱うようになったが,これより先の安政2年,毛川は百姓町人の「あぶらを絞」ったとして閉門蟄居を仰付けられ,協力した家老や奉行もそれぞれ処罰された。戊辰戦争では北陸道鎮撫使に従って越後や会津を転戦した。「藩制一覧」によれば,本高2万2,777石,新田683石余,引高2,402石余,正租米6,783石余,雑租米金404石余と301両余,諸産物は刻多葉粉50万斤(運上永62貫文余)・生糸350貫(同13貫文余)・石炭1万叺(同13貫文余)・菜種3,000叺・漆50荷(同2貫文余)・黄蓍5,000貫程・杉板2万間程・焚炭2万貫程,戸数3,381(士族160・卒族91)・人口1万7,169(士族765・卒族519)。明治4年勝山県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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