敦賀津
【つるがのつ】
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古く笥飯浦(けひのうら)・角我(角)津(つぬがのつ)ともいう。敦賀湾頭に位置する古代以来の港。天然の良港に加え,背後の野坂山地を通る断層谷が琵琶湖北岸への自然の通路となり,畿内から大陸への門戸,また日本海側諸地方との中継港として栄えた。敦賀は和銅6年角我を好字に改めたもの。角我は崇神天皇の時笥飯浦に来着した都怒我阿羅斯等によるという。笥飯は港の守護神気比神宮によるか。神宮の主神伊奢沙和気命は一説に新羅王子天日槍といい,境内社角鹿神社は任那王子の都怒我阿羅斯等を祀るなど古来大陸との関係が深い。渤海国使節などを迎えた平安期の松原客館も神宮の管理するところであった。「日本霊異記」聖武天皇の時奈良の人楢磐島が大安寺の修多羅銭を借り,この津に至り商品を購入して帰ったことが見え,当時すでに財貨の集まる港であった。平安期入津した北国の官物・荘園の年貢は関税を徴収され,海津・塩津に至る官道を経て京へ運ばれた。長徳元年宋船が入港,僧源信は京より下って商人と会見している。文永7年延暦寺領越前国藤島荘の勧学寮講米が陸揚げされ,馬借によって海津に運ばれたが,講米の保管や運送は問職に委ねられており,鎌倉期に問丸の存在を知ることができる。関税も乾元2年気比神宮の気比桝米の収取,徳治2年後宇多上皇の西大寺・醍醐寺など修理料としての桝米5年分寄進などにみえる。交通の要地は軍事的にも重視され,養和元年源義仲追討の平通盛が拠り,延元元年新田義貞は恒良親王を奉じて金ケ崎に籠城した。「太平記」は義貞の軍兵が湊町の民家に泊まったこと,金崎舟遊びに遊女が親王を慰めたことが見えて繁栄の一端を伝える。室町期末は朝倉氏の庇護下に川舟・河野屋の舟座が組織されて活躍した。天正年間に織田信長の将武藤・蜂家氏は舟座の特権を追認したが,この頃から他国出身の商人が遠隔交易に従事して,高島・打它など初期豪商に成長した。近世には彼らは中世的な舟座と異なる専門の海運業者舟道として一層発展した。蝦夷地から長門に至る国々の城米・産物を中継して,港はますます発展するかと思われたが,寛文年間の西廻り海運の開発で中継交易は打撃を受け,以後港勢は停滞する。港町の形成は川中が古く,気比神宮に近い島寺・唐人橋(とうじんがはし)・三日市・金ケ辻子(かねがずし)・庄町・西町・東町などは中世にさかのぼる。豪商,魚・青物市,馬借座などが集まり,商業・流通機能の中枢であった。近世初頭浜側に西浜町・船町などが新しく町立てされた。川西は天正年間に敦賀城が築かれ,元和2年破却後も結城・酒井氏は陣屋・町奉行・代官所などを置いた。寛永12年茶町が開かれ,次いで池子(いけす)町などが生まれた。川東は天正年間末に河野屋の舟人らが川中から移住し,寛文10年新町が開け,運送従事者の集住と歓楽街となった。慶長元年の入津1,630艘,米50.5万俵,寛文4年は2,670艘,米75.6万俵。寛永年間の25町は寛文3年41町,2,930軒・1万5,101人,天和元年41町,2,076軒・1万3,568人,宝永6年36町,2,561軒・1万2,296人,享保6年36町,2,578軒・1万913人,天保11年8,952人と,家数・人口など寛文年間をピークに港と同じ歩みをみせた。主な移入品はほかに四十物・紅花・青苧・材木など,移出品は茶が最も重要であった。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7093802 |