鞠山藩
【まるやまはん】

旧国名:越前
(近世)江戸期の藩名。「まりやま」ともいう。譜代小藩。天和2年酒井忠稠が小浜藩から,敦賀郡のうち5,000石と近江国高島郡のうち5,000石,計1万石を分知されて成立。このとき井川領(敦賀郡)も成立した。敦賀郡内の所領は,元比田・大比田・横浜・杉津・阿曽・挙野・五幡・江良・赤崎・田結・田尻・獺河内・池河内・大蔵・谷・高野・小河・奥野・曽々木・和久野・原・木崎(844石余中842石余,残りは小浜藩領)および南条郡菅谷村(正保郷帳では敦賀郡)の23か村で以後も変わらず,勝山(かちやま)藩のように検地をしなかったので内高にもほとんど変化はない。戸口は,同3年799戸(高持637・無高162)・4,197人(男1,941・女2,163・出家など93),享保14年5,573人(男2,684・女2,794・出家など95)。忠稠は,貞享4年赤崎浦塩込(しおこみ)に陣屋(鞠山役所)を設け鞠山と改めたので鞠山藩という。忠稠のあと忠菊―忠武―忠香―忠言―忠藎―忠毘―忠経と続いて廃藩に至る。貞享3年の年貢高は2,935石余(58.7%)でかなり高額であった。藩主が定府であったこともあって,はじめ小浜藩の支配に委ねられていたが,忠香の宝暦8年から郡奉行を派遣して直接支配するようになり,下役の郷代官や手代には地元の有力者をもってあて,町会所も敦賀の御所辻子に置いた。忠香は同11年寺社奉行となったが,天明6年陣屋が焼失したため幕府から2,000両貸与されている。明治2年の版籍奉還によって敦賀藩と公称され,敦賀港とまぎらわしいため同3年3月鞠山藩と改称したが,同年9月には小浜藩と合併した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7095182 |