稲核村
【いねこきむら】
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旧国名:信濃
(近世)江戸期~明治7年の村名。はじめ筑摩郡,江戸初期から安曇(あずみ)郡に所属。梓川右岸の段丘上に位置する。旧野麦街道沿いの蒲田地区から,縄文土器をはじめ土師式住居跡・土師器・灰釉陶器が発見されている。また地内には垣内の存在を推定させる地名があり,対岸の栃沢の奥には殿様小屋といった地名も残る。天正9年11月木曽義昌は織田信長に内応したが,その時,「いねこき口」には織田家臣の古畑伊賀・西牧又兵衛が遣わされたという(岩岡家記/信史15)。同11年8月14日小笠原貞慶は「一,境目落着者,いねこき・なかわ・おふのかハ代官事」を二木重吉に命じた(御証文集/同前16)。松本藩領。上野組に属する入4か村の一つ。村高は,文禄年間のものと思われる松本領郷村高附帳(県史近世史料5-1)では筑摩郡に属し10石余,寛永19年の松本領村々高附帳(同前)では20石(畑方のみ),「正保書上」でも筑摩郡に属し10石余,「元禄郷帳」では安曇郡に属し10石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに53石余。元和元年大坂夏の陣で敗れた加賀藩主前田利家の弟利貞とこれに従う有馬・川上・上条・小林・斎藤を名乗る者たちが当地に土着し,稲核村の基礎を築いた(前田家文書)。また乗鞍岳麓の大樋銀山からの移住者も多かった。大樋銀山はすでに戦国期武田信玄によって採掘されたと伝えられ,それ以降もたびたび松本の領主により採掘が試みられ,閉山すると当地に居着く者があった。地内北東端に松本藩の西口の番所(口留番所)があり,南西では現奈川村の尾張藩大白川番所に接している。枝村として橋場・明ケ平の集落があった。明ケ平の地名は,当時稲核鉱山から明礬を産出していたことにちなむものと思われる。橋場に置かれた口留番所は街道往来の取締りのほかに,表勘定所山方役所の出先を兼ねており,入4か村に広がる広大な藩有林の監視,特に盗伐品の摘発を厳重に行った。当村は杣業を生業とする者が多く,松本藩の御用杣の人数も入4か村で一番多かった。文久3年藩から軍用郷夫の徴収が命じられたが,当村はすでに同年の伐木の個人割当が済んでおり,徴収に応じるだけの余裕の人員がいないと答えている。その際当村は本面杣45人・七分五厘杣10人・五分杣10人・二分五厘杣18人がおり,他所へ出ている者などを含めて90人の杣を書き上げている。またこのほか曲輪(がわ)杣が本村に11人,橋場に29人おり,杣以外にも商人15人・大工5人・牛士6人・百姓11人・鍛冶4人・紺屋2人などが見えている。当村では御用炭も早くから焼き出しており,万治2年の記録によれば17の炭竈があった。焼かれた炭は島々村の御用炭蔵に運ばれた。当村での新田開発は,寛政10年岡村太郎兵衛指導による開田に始まる。享和2年には村中で19人の耕作と250俵の籾収穫があった。しかし高冷地のため産額は伸びず,明治期にかけて,新たに養蚕が行われるようになり,水田は桑畑と化した。のち当村内の天然の風穴を利用して蚕種の冷蔵が行われ,明治期には12業者を数えることになる。神社は諏訪大明神,寺院は寛永元年創建の曹洞宗法界寺があった。明治4年松本県を経て筑摩県に所属。明治初年の戸数161・人口775(県市町村合併誌)。同6年島々村温智学校分教場として稲核派出所が開設。同7年安曇村の一部となる。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7099291 |