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加佐郷
【かさのごう】


旧国名:信濃

(中世)南北朝期~戦国期に見える郷名。水内(みのち)郡若槻新荘のうち。伽佐とも書いた。千曲川左岸に位置し,斑尾山南東麓の奥手山丘陵から米山山塊にかかる地で,郷内を斑尾川が流下する。地名の由来は,地形の狭隘「かいさ」説,あるいは古氏族の笠氏などにちなむものとする説がある。古くから交通の要衝であった。南北朝期から室町期にかけて,郷域は高梨氏・市河氏の所領が複雑に入り組む様相となっている。嘉慶2年8月19日の二宮氏泰宛行状によると,「加佐郷内新屋分」を信濃守護代が料所として市河頼房に預けている(市河文書/信史7)。次いで明徳3年3月日の高梨朝高所領言上状案によると,「若槻新庄加佐郷内飯岡村」は高梨高経の所領であった(高梨文書/同前7)。応永6年の大内義弘の乱平定に関連して,高井郡烏帽子形城を攻めた功により,市河義房は,応永7年5月27日,守護小笠原長秀より「飯岡・長江・名立知行分」を除いた「加佐郷庶子分」を宛行われた。同年6月2日,市河興仙は「加佐郷内〈新居分門阿跡〉」などを安堵され,同8年6月25日にも守護斯波義将より,本領のほか「加佐郷庶子分静妻北蓮分平滝」を安堵されている。また翌9年9月17日にも幕府から「加佐庶子分」を安堵された(市河文書/同前7)。長享2年の春秋宮造宮次第によると,諏訪社秋宮御柱のうち第3の柱を「若槻庄 志妻・伽佐」で負担している(信叢2)。また天正6年の下諏訪秋宮造宮帳によれば,三之御柱役を同じく勤めているが,同7年の下宮春宮の玉籬・外垣に充てられた「志妻・伽佐・奈良沢・上蔵・蓮」の5か郷は敵境のゆえ,地下人難渋し造宮料を済まさずに終わった(同前)。武田氏滅亡後の天正10年6月15日,上杉家相続争いに功のあった岩井信能は上杉景勝より,信州本領のほか「かつさ(替佐)・しつま(静間)・はちす(蓮)・岩井」を宛行われた(歴代古案/信史15)。郷域は江戸期の替佐村・穴田村と笠倉村も含む一帯,現在の豊田村穴田・豊津一帯であろう。替佐地区の背後に戦国末期の様相を残す替佐城跡があり,また,京都長楽寺蔵の時宗の遊行派末寺帳に「勝名寺賀佐」とある(長野64)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7099931