黒川村
【くろかわむら】
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旧国名:信濃
(近世)江戸期~明治7年の村名。筑摩郡のうち。木曽川支流黒川流域に位置する。地名の由来は,白い花崗岩の多い木曽川に比し,黒川は黒い安山岩の岩石ばかりであることによるか。中世木曽氏の一族である馬場氏・古畑氏が黒川一円の開拓にあたった。天正18年木曽義昌が下総網戸へ移ると,馬場氏も同行,以後残った古畑氏が肝煎として村を治めたという。はじめ幕府領,元和元年からは尾張藩領。村高は無高(元禄郷帳・天保郷帳)で,年貢米などで示されており,「慶長御成箇帳」米30石余・榑3,500丁,「享保書上」米47石余,「旧高旧領」では84町4反1畝12歩と見える。なお,宝暦9年木曽山御材木仕法留書によれば,享保9年から榑・土居の御年貢木は廃止された。「吉蘇志略」によれば,宝暦3年の反別は田10町2反余・畑58町3反余,家数194・人数1,062。天保9年「木曽巡行記」によれば,上納高47石余,家数169・人数948。庄屋役は古畑家が世襲したが,文政8年~天保7年まで山論の処罰により役儀取上となっている。山論は元文年間から明治期までの間,庄屋古畑家の所有した古山(五貫文山)への村々の立入りをめぐって繰り返された。文政7~9年には福島の山村代官所・尾張藩城下への直訴などが行われている。文政9年には,庄屋過怠牢・役儀取上,組頭のうち3人押込・1人役儀取上,百姓側は,流罪4・重追放1・中追放18・軽追放3・過怠牢23・過料200文75の処分を受けている。天保7年に内済となったが,明治初年また紛争となり,明治11年になってようやく解決している。福島関所の下で中山道と分かれた飛騨街道が通り,当村の黒川渡には福島関所の裏番所であった黒川渡番所が置かれていた。氏神は,白山権現社・蔵王権現社,ほかに弁財天社があった。また,山村氏によって建てられた薬師堂があった。明治4年名古屋県,伊那県を経て筑摩県に所属。同7年新開村の一部となる。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7100568 |