春近領
【はるちかりょう】

旧国名:美濃
(中世)鎌倉期~室町期に見える領名。伊那・高井・筑摩・埴科(はにしな)郡のうち。単に春近とも見え,戦国期には荘名・郷名でも見える。春近領とは,有力在庁が春近という名義を使って請負人となって設立した所領で,在庁名の一つと考えられ,信濃のか,近江・美濃・上野・越前・肥後などに分布する。信濃の春近領は,治承・寿永の内乱で,当領の領主であった有力在庁が平氏あるいは木曽義仲に与したため源頼朝に没収され,関東御領となったと考えられる。「吾妻鏡」文治2年6月9日条に見える。「一,春近并郡戸庄年貢事」は,信濃国とする説もあるが,当時美濃国が院分国であり,美濃国とするべきであろう。信濃国における春近領の初見は,建仁3年9月23日の鎌倉幕府下知状で「信濃国春近領志久見郷地頭職事」とある(市河文書/信史3)。信濃の春近領は,近府春近(さんぶはるちか)・伊那春近・奥春近の3つに分けられていた。正安2年11月8日の鎌倉幕府下知状によれば,永仁3年に撫民のため「近府・伊那春近分」を地頭請所とした例に准じて「奥春近領志久見郷」を地頭請所(請料200文)とするよう定めている(同前/同前4)。また正慶元年12月27日の鎌倉幕府下知状によれば,「信濃国志久見郷内石橋・壷山・細越三ケ村春近年貢」とあり,当領の年貢は春近年貢と呼ばれ,公田の所役であった(同前)。近府春近は筑摩郡内の諸郷からなり,塩尻郷・島立郷・小池郷・新村郷・二子郷の5か郷があった。貞和3年4月26日の足利尊氏下文では,小笠原貞宗に「春近半分〈塩尻・島立江下郷村〉」を勲功賞とし宛行っている(小笠原文書/信史5)。その後正平6年12月23日には足利義詮が勲功賞として「春近半分〈上椙宮内大輔(藤成)跡〉」を小笠原政長に宛行い,さらに足利尊氏が,同7年正月19日には「信濃国春近領」を小笠原政長に,「信濃国春近領闕所分」を同長基に安堵し,観応3年7月17日には両所を勲功賞として同政宗に宛行っている(同前/同前6)。貞治4年11月6日,小笠原長基は「塩尻郷春近折中分」を石清水八幡宮に寄進した(同前)。下って,応永7年6月11日には小笠原長秀は「筑摩郡春近領塩尻東西・小池東西・新村南方等」を諏訪社下社大祝に安堵しており,応永31年10月9日・宝徳3年10月16日にも,同様に小笠氏が同社大祝に安堵している(諏訪大社下社文書/信史7・8)。伊那春近は伊那郡の諸郷からなり,小井弖郷・二吉郷・赤須郷・飯島郷・片切郷・田島郷・名子郷が含まれた。伊那春近の地頭は北条氏得宗であったと考えられ,小井弖・二吉両郷には,得宗被官工藤小井弖氏がいた。建長4年8月7日の北条時頼書下には,小井弖師能とその弟宮熊との「春近領」内小井弖・二吉両郷内の田の堺についての相論に裁許を下している(工藤文書/同前4)。正応元年11月3日の北条貞時下知状案によれば,この両郷支配のため弘安8年頃現地に池上弥次郎入道が派遣されており,工藤小井弖氏は北条氏の下で地頭代となっていたものと考えられる(同前)。なお,南北朝期と推定される年月日未詳の至鈍置文には「同前(堅瑛西堂寄進)〈名子之加茂藤内三郎作下一段,春近年貢八十七文,其外ハ郷例〉」とある(西岸寺文書/信史6)。また応永元年2月15日の赤須郷公田注文には「一,春近公田六段半」が見える(松崎文書/同前7)。下って,戦国期の永禄11年11月25日には,武田信玄が「伊那郡春近庄之内三百五十貫文」などを飯島長左衛門に宛行っているが,この文書は検討を要する(飯島文書/同前13)。奥春近には高井郡志久見郷と埴科(はにしな)郡舟山郷が含まれた。前述した建仁3年9月23日の鎌倉幕府下知状によれば,「春近領志久見郷地頭職」を中野能成に安堵しており,以降同郷は中野氏に相伝された(市河文書/信史3・4)。下って,応永30年11月16日の足利義持御教書によれば,「更科郡春近内船山郷」が小笠原政康に宛行われている(小笠原文書/同前7)。その他,所属郡未詳であるが,安曇(あずみ)郡住吉荘とともに小笠原氏に相伝された春近領がある。これは,応永5年8月24日の足利義満御教書が初見で,「信濃国住吉庄并春近事」を小笠原長吉に還付し,翌6年5月10日義満は「春近領下地」を長秀に安堵した(同前)。しかし,この両諸をめぐって小笠原氏と大文字一揆との間で相論があったらしく,応永22年12月5日に足利義持は両所を小笠原長秀に還付したが(同前),翌年3月には大文字一揆がこの還付を不満として訴えを起こしている(丸山文庫文書/信史7)。そして同25年9月9日に義持は両所を小笠原政康に還付,正長元年8月28日には足利義宣が「春近領下地」を政康に安堵している(小笠原文書/同前7・8)。当領の遺称地としては,江戸初期,慶長17年9月日の小笠原秀政寄進状に「信濃国伊那郡春近郷松島村之内 四石一斗米之事」とあり,筑摩郡小野宮に寄進している(小野文書/同前21)。江戸期には,小出村を中心に春近郷と呼ばれており,明治8年に東春近村・西春近村ができ,現在は伊那市の大字東春近・西春近となった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7102800 |