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北国街道
【ほっこくかいどう】


五街道の一つ中山道と北陸道(北陸街道)を結ぶ街道。正式には北国脇往還と呼ぶが,現在では北国街道の名で定着している。中山道と佐久郡追分宿で分かれ,小諸宿を経て小県(ちいさがた)郡に入り,田中・海野・上田宿を通過し,埴科(はにしな)郡の坂木・戸倉・矢代の各宿を通り,更級(さらしな)郡丹波島,水内(みのち)郡の善光寺・新町・牟礼・古間・柏原・野尻の各宿を経て越後国頚域(くびき)郡関川を通り,同国高田で北陸道と連絡していた。このうち田中宿と海野宿,古間宿と柏原は月の前半と後半に分けて宿場役を勤め,戸倉宿は上戸倉と下戸倉に分かれていた。県内の宿場はこの正式な14宿のほか,間の宿として坂城~上田間に鼠宿があり,また善光寺街道(北国西街道)との分岐点篠ノ井追分(しののいおいわけ)は,宿の機能も果たしていた。北国街道は延長35里。加賀藩が参勤に通ったことから加賀街道の別名もある。この街道は江戸と信越・北陸を結ぶ重要な道路で,佐渡の金山から産出する金銀の輸送,加賀前田家をはじめとする北陸方面の諸大名の参勤交代の通路,さらに関東・信越の人々の物資の交易路として盛んに利用された。この道が制定されたのは,中山道が定められた直後のことで,慶長8年2月徳川家康が坂木宿に下した朱印状が残ることから,この頃正式に宿駅が指定されたものとみられる。各宿に常備しておくべき人馬の数は25人・25匹と定められていた。それ以上臨時に必要とする時は,各宿の助郷村からの人馬によった。しかし牟礼以北の古間・柏原・野尻の各宿には定助郷の定めがなく,それぞれ最寄りの村から人馬を集めて用を勤めた。街道は多くの旅人が行き交い,江戸から文化の流入が活発であった。輸送された物資は,越後から信濃や関東へ,米をはじめ塩・魚類干物・真綿・麻布・加賀笠などが主なものであった。また越後方向へは麦・大豆・油などのほか紙・漆器・木綿・煙草・栗・柿などが多かった。この街道の各所から支道が分かれていた。上田宿から東へ常上州道,西へ保福寺道,矢代宿から松代街道,善光寺宿から戸隠道,新町(あらまち)宿から飯山街道などが越後や上州へ通じていた。明治維新後,現在のJR信越本線の開通とともに宿駅は寂れたが,北国街道は新たな国道18号として県内幹線道路の一翼を担っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7103229