田原藩
【たはらはん】

旧国名:三河
(近世)江戸期の藩名。三河国渥美(あつみ)郡田原に居城を置く譜代藩。はじめ吉田城主池田輝政の家臣伊木清兵衛が城代として派遣されていたが,慶長5年輝政が転封になると,同6年伊豆国下田の旗本戸田尊次が関ケ原の戦の軍功によって1万石の大名に昇格して田原に封ぜられて立藩。尊次の先祖は今川義元の攻略で滅亡した元田原城主戸田尭光で,55年目に田原戸田氏が復活したといえよう。寛永7年の藩領は,渥美郡田原(田原城廻り)・浦・吉胡・波瀬・加治・神戸・根田(こんだ)・赤羽根・芦・野田・大久保・仁崎・白谷・和地・越戸(おつと)・若見・院内・浜田の18か村,本高9,737石余・浮役高335石の合計1万72石余であった。藩主は尊次のあと,忠能・忠治(忠昌)と続いたが,寛文4年忠治が肥後国天草に転封された。代わって挙母(ころも)藩主だった三宅康勝が田原に1万2,000石で封ぜられ,この時,渥美郡高松・大草・久美原・長仙寺・片浜・宇津江の6か村が藩領に編入され,「寛文朱印留」では,24か村・高1万2,072石余となった。以後,三宅氏は康勝から康雄―康徳―康高―康之―康武―康邦―康友―康和―康明―康直―康保に至る12代,明治維新までの200年余にわたり在封した。新田開発なども積極的に行われ,明治2年の版籍奉還時には実高2万178石余と記録される。しかし,城主大名の格式を維持するための費用,藩士数の多さなどから,藩財政は当初から窮乏の一途をたどり,その対応策は高利貸商人からの借金,藩士引米制,年貢収取の強化などで,現状の糊塗にしかならなかった。天保年間に家老に就任した渡辺崋山は,領民の救済を根本にした凶荒対策,農学者大蔵永常の登用による殖産興業政策,藩官僚制刷新のための格高制,海防のための海外事情研究など一連の藩政改革に取り組んだが,蛮社の獄により十分な成果をあげ得ぬまま挫折した。崋山の藩政改革の遺志は,門弟の鈴木春山・村上範致らに受け継がれた。西洋兵学を翻訳したり,全国に先駆けて藩の軍制を西洋式に改革したり,軍船兼内国交易船として西洋式帆船を建造・就航させたりするなど,小藩ながらその先進的な政策が諸藩から注目されるに至った。また,文化7年に創設された藩校成章館では開国進取の精神に立脚した「教化」と「養才」が文武両面において実施された。三宅氏は江戸城中では1万石級の大名としては例外というべき帝鑑の間詰が多く,半蔵門外に上屋敷,巣鴨・本所に下屋敷,四ツ谷に中屋敷があった。領内24か村は東西の両手永に区分され,それぞれに村奉行を置き,その下に地方代官がいて徴税その他の実務にあたっていたが,不正防止のため3年毎に東と西の代官を入れ替えており,これを代官の手永替りと称した。東手永には神戸・浜田・久美原・長仙寺・院内・根田・野田・田原城下町,西手永には和地・越戸・若見・赤羽根・高松・大草・加治・大久保・芦・宇津江・仁崎・白谷・片浜・波瀬・浦・吉胡の各村が属していた(田原町史)。宝永2年の領内戸数4,314・人数2万343,明治2年の戸数4,317・人口2万1,752,寺69。同3年の物成高5,735石余,藩債金10万822両余(同前)。同4年7月の廃藩置県により田原県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7120245 |