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黒田荘
【くろだのしょう】


旧国名:伊賀

(古代~中世)平安期~戦国期に見える荘園名。伊賀国名張郡のうち。黒田杣とも。長久4年11月5日の藤原実遠解に「黒田庄出作田者,是往古寺領也」とあるのが初見(松永憲二氏所蔵文書/平遺615)。その前身は東大寺領板蝿杣にあたる。10世紀中葉,東大寺は板蝿杣の東四至を笠間川から名張川まで拡張し,四至外であった焼原杣と宇陀・名張両河左岸の山麓地域を領有(東大寺文書/平遺289)。このころより,山麓の黒田・大屋戸村の地域で杣工や公民の定住と田畠の開発が進む。11世紀に入ると,長元7年,拡張された杣の四至を公認し「住人并工等臨時雑役」を免除する官符が出され,ついで長暦2年には杣四至内の見作田6町180歩の所当官物と杣工50人の臨時雑役が免除され,杣から荘園への転換が図られる(東大寺文書/平遺1739)。黒田荘という呼称もこの時期から用いられるようになったとみられる。四至内住人(荘民)の臨時雑役が免除されたことは宇陀川河東の公民に大きな影響を与え,公民は荘民の因縁・所従と号して,黒田荘の寄人となる動きを開始する。また逆に荘民も雑役免の特典を生かし,競って河東の公領への出作を始めた(同前)。やがて荘民らは出作田を荘内と称して官物を弁済せず,不当な四至の拡大を図ったため,国衙側の反撃をうけ,武力でもって対抗した荘民と国衙との間に天喜元年・同2年と2度にわたって武力衝突がおきる(天喜事件)。さらに多数の「夫兵眷属」を率いた国司による実力行使も敢行され,荘民の出作田46町5反(長屋・下津名張・簗瀬・矢川の諸村に所在)が没官された(東大寺文書/平遺732,佐佐木信綱氏所蔵文書/平遺781)。しかし,天喜4年にいたり,東大寺の朝廷への働きかけが功を奏し,四至の牓示を打ち直し黒田荘を国使不入・国役免除とする官宣旨が出される(東南院文書/平遺787)。これにより,宇陀・名張両河以西の黒田・大屋戸村が本免田(公定田数25町8反半)とされ,黒田本荘が成立する。また荘民による河東の公領への出作も公認され,この地域に東大寺の封戸物が便補される(御封便補)。11世紀前半,河東の公領に位置する矢川・中村・簗瀬の3村は藤原実遠の所領となっていた。実遠は所々に田屋を構え,服仕させた農民に功・食料・種子などを与え佃を耕作させる直接的な経営(私営田経営)を行い,「当国猛者」として「国内人民,皆為彼従者,所服仕也」といわれるほどの威勢を振るったが,やがて新しい村落形成の動きをみせるまでに成長した農民を掌握することができず,その経営は没落し,所領も荒廃していった(内閣文庫所蔵伊賀国古文書/平遺1261,東大寺文書/平遺588)。天喜4年,実遠はこれらの所領を養子の藤原信良に譲ったが,治暦2年にいたり,簗瀬郷(村)は実遠の負物を償うため元興寺大僧都有慶の所領となる(東南院文書/平遺763,東大寺文書/平遺1002)。同年,荒廃した簗瀬郷の開発を企てた有慶は,①3か年の間は地利を免除する,②開発後は官物は国庫へ,反別1斗の加地子は領家へ納める,③作手は為延の相伝とする,という条件で,丈部為延に開発を請け負わせた(同前)。為延は農民を組織して開発に成功し,この後簗瀬を本拠にした丈部(源)一族は簗瀬保司・名張郡司を兼任するまでに成長する。一方,領家職は有慶から東南院家に相承される(東大寺文書/平遺3732)。残った矢川・中村は信良の後,妻の当麻三子―薬師寺別当隆経―弟の藤原信房―その子の実誉・中子・保源と伝領される。河西の本免田が確立し,河東の公領への出作が公認された11世紀中葉以降,雑役免の特典を利用した荘民の出作が公民の荘寄人化の動きをともなって広範に展開してゆき,11世紀末には玉滝・黒田両荘の「出作公田三百八十余町」,さらに12世紀初頭の長治3年には「彼庄本免廿五町之外,出作公田三百余町」とまでいわれるようになる(東大寺文書/平遺1710・2667)。出作地の官物は御封便補により所定量が東大寺へ直接納められることになっていたが,出作した荘民たちはその制度を利用して官物の減額を要求し,対捍を続けた。このため,11世紀末から官物の賦課額を反別2斗だとする東大寺と3斗を主張する国衙との間で,官物率法(反別賦課額)をめぐる相論が執拗に繰り返される。12世紀に入ると,国衙は簗瀬村の開発を通じて成長した源(丈部)氏を利用して,黒田荘の寄人と化していた公民の再把握に乗り出し,それまで負名単位(田率)に賦課していた国役(雑役)を在家別の賦課にかえ,公郷の在家を直接掌握しようとする(東大寺文書/平遺1819)。これは荘民が雑役免であることを利用して出作地域に支配を及ぼしていた東大寺に対する国衙の反撃であったが,まもなく東大寺は下司・公文・専当・頭領・刀禰という荘官組織を整備するとともに,荘民たちを東大寺に服属させるための新たな支配イデオロギーを投入することによって,これに対抗する。後者は上層の荘民たちに東大寺に隷属する「寺奴」であると観念させるもので,「寺奴の論理」といわれる(内閣文庫所蔵伊賀国古文書/平遺1847・2147)。こうした東大寺の巻返し策が成果をあげつつあった長承2年,東南院覚樹が藤原信房の子らに伝領されていた矢川・中村の私領主権を獲得し,矢川・中村は簗瀬村とともに東南院領となる(三国地誌/平遺2260,東南院文書/平遺2262)。翌3年,覚樹は矢川・中村・夏見条(村)の公田畠の検注を実施するが,やがてこれら公民作の田畠は,荘民が耕作し作手としての権限を保持する「出作」と区別して「新庄」と呼ばれるようになる(筒井順永氏所蔵文書)。さらに東大寺は支配を強化すべく預所制を導入し,保元2年に初代の預所として,それまでも国衙との相論において活躍していた威儀師覚仁を現地に派遣した。覚仁は応保2年,国衙側の拠点として寺家支配の浸透に抵抗していた簗瀬保司源俊方の殺害を図り,軍兵300余人を率いて簗瀬に乱入し,俊方を逃亡させる(東大寺文書/平遺3221)。この事件により出作地域に対する国衙の支配を後退させた東大寺は承安4年にいたり,ついに後白河院庁下文により出作と新荘の一円不輸寺領化に成功する。出作では御封便補の残りの官物がすでにわずかとなっており,また新荘でも悪僧たちが押領して諠譁が絶えないという理由で任終の国司が官物を免除し,これを院庁が承認したものであった(東南院文書/平遺3666)。ついで翌5年,東大寺は出作の官物のうち御封便補にあてる分を除いた残りおよび新荘の官物を常住学生百口供料にあて,公事は本荘の催促に従って勤仕する旨の置文を定めた(東南院文書/平遺3674)。しかし,出作地域の不輸寺領化を承認しなかった在庁官人らは興福寺僧や新荘下司となった俊方と結び,出作・新荘を転倒すべく乱入し,この実力行使が失敗した後も,東大寺との間で相論を続ける(東大寺文書/平遺3711・3998)。この相論が終息した鎌倉前期,ようやく出作・新荘は東大寺領としての確立をみる(東大寺要録/鎌遺2787)。出作地域の不輸寺領化により拡大した黒田荘は本荘・出作・新荘からなり,東は現在の名張市青蓮寺,南は竜口(現在の奈良県宇陀郡室生村竜口を含む可能性もある),西は西山連峰・笠間峠,北は夏焼・蔵持に及ぶ名張郡の主要部を荘域として占めるようになる(東大寺文書/平遺3999)。河西の大屋戸・黒田・安部田の3村は本荘,河東の矢川・中村・夏見村が出作・新荘にあたるが(相方の田畠が混在する),はじめ出作に属した簗瀬村はやがて簗瀬荘と呼ばれ,出作と区別される。これら黒田荘を構成する本荘・出作・新荘・簗瀬の諸荘はいずれも東大寺(形式的には別当に代表される)を本家としながらも,出作と簗瀬荘は東南院,新荘は尊勝院と領家職を異にし,本寺の直轄地である本荘を除き,その荘務権はそれぞれの領家が掌握した。本荘の田数は建保2年5月日の東大寺領諸荘田数所当等注進状によれば,25町7反160歩(東大寺続要録/鎌遺2107)。出作・新荘は安元2年の検注によると,簗瀬村を含め289町2反130歩で,その内訳は矢河条56町7反250歩(出作38町7反60歩,新荘18町190歩),中村条117町9反230歩(出作96町9反50歩,新荘21町180歩),夏見条53町9反120歩(出作46町7反300歩,新荘7町1反180歩),簗瀬村60町5反300歩(出作のみ)となる(東大寺文書/平遺3781)。田地は年貢が免除される除田を除くと,公事が賦課される「公事負田」と公事免除の「田率間田」とに分かれ,これらは百姓名に編成された。百姓名編成は平安末期に着手され,「任所務旧例,定公事勤否」めた正治元年に固定されたとみられる(東大寺文書4-58)。黒田荘公事勤否名々注進状によれば,黒田本荘の公事を勤める名の惣数は96名(このうち32名は大屋戸郷に所属)であるが,鎌倉後期には大屋戸郷を除き,「田率人夫事,於六十六名名別一人可出之」と見える(東大寺文書10/大日古)。このなかには河東への出作を反映して,本荘と出作地域とにまたがって下地を保有する名もあったが,一方,出作・新荘・簗瀬荘には本荘の公事を勤めない百姓名もあったことが知られる。荘民を「寺奴」,作人とみなす東大寺は,強大化して寺領支配の障害となる在地領主(武士)の存在を容認できず,黒田荘支配の確立過程において,荘内の有力武士の荘外追放を敢行した。承安5年の源俊方,元久2年に「仮国威以押妨寺領,募武芸以違背衆徒」したかどで荘内より追放された関東御家人服部康兼などがその代表的な例である(東大寺文書/鎌遺1558)。しかし,いくつかの村落からなる広大な荘域を支配し,「黒田御庄百姓等」として結合をとげた荘民を服属させるためには,寺家に従順な中小領主(武士)の存在は不可欠であり,彼らを積極的に荘官として登用せざるをえなかった。本荘・出作の下司大江氏,公文藤原氏や新荘下司の源兼俊(俊方男)などがそうである。こうして東大寺は村落成員(住人)でもあった中小領主を支配組織に組み込み,村落支配を行うことによって,黒田荘に対する直務支配を実現することができたのである。しかし,彼らがいつまでも寺家の手足であるという保証はなかった。鎌倉後期に入ると,地主職・作主職(作手職)・作人(職)という職の分化(新たな余剰得分の成立),荘官・有力名主の隷属者や小百姓の自立化による脇名の形成などの在地構造の変化を背景に,中小領主が支配権の拡大・強化を図り,一般荘民も巻き込んで,公然と東大寺に敵対する動きを示すようになる。いわゆる黒田荘の悪党である。弘安年間のはじめ,所領拡大を企て相伝の下司職を没収された大江清定は,荘内の有勢者であった服部康直(譲康男),清直とともに寺家支配に対する反逆を開始した。彼らは「大和国八峰山并伊賀国黒田坂山賊」「黒田・簗瀬両庄内放火・殺害」などをはたらくのみならず,「切塞路次,引逆木構城墎,打止一庄年貢以下細々公事」という公然たる本所敵対を重ね,寺領支配を脅した(東大寺文書10/大日古)。これに対し,東大寺は自力による鎮圧を放棄し,公家を通じて武家による鎮圧を求め,弘安9年,清定らは六波羅に召進された。清定の後同じ大江一族の観俊が下司職に補任されたが,寺命に背くことが多く,正安2年ついに舎弟の伊賀房覚舜とともに,所々に城郭を構え「苅取作稲,追捕民屋,於年貢課役者,一向抑留」するという行動に出る(筒井寛聖氏所蔵東大寺文書)。清高入道(大江清定),道願(次郎太郎入道),仏念(黒兵衛入道,夏見公文),孫五郎入道(坊垣外),円春(宗覚,星川),静蓮(弥五郎入道,青蓮寺)など荘内の在地領主も彼らに与同し,この後長期にわたって寺家対捍が続く(東大寺文書10/大日古)。悪党の主体は覚舜・清高らの大江氏を中心に地縁や通婚および擬制的血縁関係により結合した在地領主層であったが,この時期には「惣庄土民等,令同心彼悪党等,追放寺家使者,切塞路次致悪行」という事態もおこってくる(同前)。こうした悪党の組織的拡大や一般荘民の悪党への加担を前に,東大寺の要請をうけた六波羅の追捕命令も容易に実行されなかった。嘉暦3年にいたり,ようやく覚舜以下悪党張本の召進が実現されたが,この追捕も悪党張本の交代を意味するにすぎず,依然として悪党縁者による年貢未進が続けられた。嘉暦3年,覚舜の甥金王兵衛尉盛俊らは住宅破却・所領没収のために下向した神人・寺家使を追放・殺害し,「掘塞黒(田脱)坂等之路次,自今以後永不可入立寺家使者於庄内之旨,及神水起請」という武力による寺家支配排除を敢行した(東大寺文書10/大日古)。この実力行使は「凡此悪行者,一庄土民無所漏之上者」とあるように,荘民の支援をうけて行われたものであり,やがて悪党は盛俊・明心(平太入道)・江次郎入道らの大江一族を中心により広範な結合を示すようになる(東大寺文書10/大日古)。またこの時期には東大寺と幕府との連携に対抗すべく,悪党らは禁裏供御人と号し,御贄所贄司の挙状を得て朝廷に訴え,記録所において東大寺との対決を企てるようになる(狩野亨吉氏蒐集文書)。悪党らが供御人と称したのは,宇陀川(供御川)における供御使の活動の伝統を踏まえたものであろう。この企ては朝廷の承認をうけ,悪党らは六波羅の追捕を免れることになる。こうした悪党を中心とする荘民の度重なる寺家対捍に直面した東大寺は,鎌倉末期,黒田荘支配の再編成を迫られ,それまでの政所・預所や院家(領家の地位を占める)に代わって,東大寺の惣寺(年預所に代表される東大寺衆徒集団)が寺領支配の前面に出てくる。嘉元元年,本荘・出作・簗瀬荘の検注を実施し寺領支配の再編成に乗り出した惣寺は,やがて三職(下司・公文・追捕使)など荘官に対する命令権を掌握する(東大寺文書4-6,4-64)。ついで嘉暦4年には出作領家の東南院から,また元徳2年には新荘領家の尊勝院からそれぞれの荘務権を獲得し,荘務権の惣寺への集中を図った(百巻本東大寺文書/大日古,東大寺文書10/大日古)。こうして黒田荘支配の実権を握った惣寺は,元徳3年にいたり,それまで地主が個別的に徴収していた加地子と学生供米などの年貢の両者をともに惣寺が補任する納所によって徴収する制度を採用する(成簣堂所蔵東大寺文書)。いわゆる惣寺による黒田荘支配の一元化である。しかし,この一元的体制も南北朝内乱と寺家の内紛により,所期の成果をあげることはできなかったとみられる。南北朝期に入っても,悪党の活動は続くが,建武元年・同2年ころは寺内の不平分子と結託して本所敵対を繰り返す程度であった。しかし,建武政権が崩壊し,内乱に突入すると,再び活発な動きを始める。彼らは鎌倉期と同様,荘内に城郭を構え寺家使の入部を拒否し,在地を完全に押える(下地押領)勢いを示すとともに,南朝方に加担して東大寺に対抗した(東大寺文書10/大日古)。この時期の悪党は四郎入道(矢河住)・金王兵衛入道盛俊を中心とする黒田荘住人,右馬次郎(簗瀬一方公文)らの簗瀬荘住人,さらに孫五郎(薦生荘公文)を中心とする薦生荘住人が地縁的・血縁的関係によって結合を遂げたもので,結合の地域的拡大が顕著になっている(村井敬義氏本東大寺古文書/大日料6-6)。こうした悪党の下地押領に対し,東大寺はたびたびにわたって鎮圧を幕府に要請したが,悪党追捕を遵行すべき守護の度重なる交替により,その成果はあがらず,正平7年にいたっても,「如当時者,地下不随所勘,而無所務実」という状態が続いた(東大寺文書11/大日古)。しかし,内乱が鎮静化するにともない,それまで南朝方に加担していた悪党らもしだいに守護の軍門に下ってゆき,応安年間ころ,黒田荘悪党の活動も終りを迎える。だがこれは東大寺の黒田荘支配の安定を意味していたわけではなく,やがて悪党らを配下に組み入れた守護が種々の課役を賦課し,支配の手をのばしている。永享11年7月22日,黒田荘(本荘)百姓らが連署して起請文を捧げ,東大寺に「寺門御恩子々孫々不可忘申候」と誓約し,年貢50石の納入を請け負っているが,これは「今度自守護方被懸様々課役候間,地下難安堵候処,依寺門御計略,属無為候」という理由からであった(東大寺文書11/大日古)。さらに翌12年には簗瀬等10か村の土豪ら(郡内一族)が東大寺に起請文を認め,名張郡の年貢960石の納入を誓約する(村井敬義氏本東大寺文書)。しかし,これも東大寺が独自になし遂げたものではなく,当時名張郡に進出していた大和の国人勢力が幕府の命により「郡内一族」に年貢納入を請け負わせたものであったとみられる(三国地誌)。東大寺はもはや自力で黒田荘支配を行うことができず,大和の国人勢力に依存せざるをえなかったのである。戦国期に入っても東大寺の支配権は維持され,少なくとも天文年間までは寺内の仏事に使用される諸用途が黒田荘に賦課されている(薬師院文書)。しかし,このころになると,大和国人勢力と在地の「伊賀衆」との対立が表面化し,天文19年には大和の多田・上笠間両氏が「山内衆」を語らって,名張郡を攻撃した(内閣文庫所蔵大乗院文書)。こうした在地の紛争は東大寺の支配に決定的な打撃を与えたと考えられるが,その5年後の永禄3年には惣持院英海が黒田新荘の代官職を請け負っており,この時期にもなお東大寺の支配は保たれていたとみられる(三国地誌)。しかし,長年にわたる東大寺の荘園領主としての黒田荘支配も天正9年,織田信長の伊賀攻めにより終止符を打たれることになる。




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「角川日本地名大辞典」
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