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菰野藩
【こものはん】


旧国名:伊勢

(近世)江戸期の藩名。薦野藩とも書く。伊勢国三重郡菰野(菰野町)周辺を領有した外様極小藩。菰野に陣屋を構える。慶長4年尾張国犬山城主土方雄久の長男雄氏は家康暗殺の従犯容疑により常陸国水戸の佐竹義重の許に蟄居となったが,関ケ原の戦の軍功により伊勢国三重郡・近江国栗太(くりもと)郡において1万2,000石を与えられ,菰野に陣屋を構えて立藩。雄氏のあと藩主は,雄高(~慶安4年)・雄豊(~宝永2年)・豊義(~享保4年)・雄房(~寛延3年)・雄端(~宝暦8年)・雄年(~安永9年)・雄貞(~天明2年)・義苗(~天保6年)・雄興(~天保9年)・雄嘉(~安政5年)・雄永(~明治3年)・雄志と廃藩まで13代270年にわたり在封した。藩領は元和3年に三重郡15村1万石,近江国栗太郡4村2,000石で計1万2,000石。豊義のとき,叔父久長に栗太郡のうちから1,000石を分与し,1万1,000石となった。2代雄高は菰野を城下町として整備し,屋敷割を行って侍町を設け,商工業者を誘致して東町・河原町を新設。また藩制を整備して菰野藩政の基礎を築いた。藩の職制は,家老・年寄役・用人役・留守居役・寺社役のほか,民政担当に勘定奉行(維新前に郡奉行と改称)がおり,その下に代官・大庄屋・庄屋が居た。藩は明暦4年の6尺5寸竿の内検後,貞享3年には幕法に従い6尺竿に改め,元禄年間これによる内検を実施した。しかし領民は6尺竿に反対したため事実上1反360歩のゆるい検地が行われ,石盛は村ごとに異なるが,低い石盛の村は免率を高くして調節した。免率は平均5つで小物成も少なく,このため維新時まで一揆はなかった。3代雄豊は延宝8年,鳥羽城請取役を勤め,また怠慢な家臣20人余を退役させて人材登用の道を開き,廃泉となっていた湯の山温泉を再開させた。7代雄年は放漫により藩債を作ったとして年寄役・留守居役等を処分し綱紀粛正を図ったが,財政は次第に窮乏化した。天明以後の凶作による減収あるいは災害復旧工事や大坂・駿府の加番による臨時出費で,毎年1,500~1,600両の借財を借入金で賄う状態となったため,9代義苗は寛政10年臨時準備積立法を計画し,年間225俵を1割2分の利で13年間積み立てた。また目安箱を設けて意見をきき,藩主費用の節減,9回の倹約令等により財政建直しに努めた。義苗はさらに干害対策として,文化元年西菰野村庄屋矢田宗九郎の発案により大湯水の取入口工事を行い,同6年は丸池溜の拡張工事を完成し,菰野藩中興の英主と称された。文教奨励の藩主も多く,3代雄豊は儒学に秀でた宇佐美美直らを登用して家塾教育の端を開き,5代雄房は伊藤東涯の門人であった竜崎泰守を用人役・寺社奉行に任用するとともに家塾を開かせて士庶を教育させ,門人の秀才を四方に遊学させた。宿野村の農民小沢担軒・西薦野村の農民南川金渓・黒田村の農民久保三水らは家塾の師となり文教の普及にあたった。9代義苗は文化13年藩邸内に藩校麗沢館を設け,さらに10代雄興は天保7年城内に修文館を新築して南川貞蔵定軒を督学とした。また中薦野村佐々木惣吉は稲の品種改良に努め,嘉永3年関取米と称する良品種栽培に成功した。茶も2代雄高以来栽培を奨励し,天保期中薦野村紅屋善左衛門が菰野茶として売り出し,嘉永期大谷九左衛門が藩主の許可を得て原野を開墾して茶園を造成した。弘化3年の藩内家数は1,910(うち三重郡1,767),士分を除く人数9,144(うち三重郡8,431)。嘉永年間の本高1万1,042石・新高1,370石の合計1万2,412石。明治3年の戸数1,981(士族90・卒族17・農工商1,839・社寺35)・人口1万64(菰野町史)。明治4年廃藩となり,伊勢国内の藩領は菰野県を経て安濃津(あのつ)県となり,同5年三重県に編入された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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