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中津荘
【なかつのしょう】


旧国名:近江

(古代~中世)平安期~室町期に見える荘園名。中津神崎荘ともいう。野洲(やす)郡のうち。長保3年12月近江国は代々の例ならびに東三条院詮子の牒旨にまかせて,「□源寺領中津神崎荘」の租税官物を免除している。本荘が同寺領となったのはこれより数十年前。中津荘は坪付によると,8条11里西半分・同12~14里,9条11里西半分・同12~14里,10条10里西半分・同11~14里にわたる大荘であるが,琵琶(びわ)湖に面した荘の西半分近くは「葦原河」「蘆葦」で占められていた(平遺419)。寛治年間には某門院領となっておりその四至は「東限十条十里中畔,南限十条南畔,西限浜崎,北限八条北畔」とある。寛治5年11月以降領主某門院は,荘の「四至内荒田参拾余町」が,南に接する京法花(ほつけ)寺領野洲(やす)荘の荘内に注し入れられたと太政官に訴え,寛治7年8月太政官符をもって京法花寺側の押領が停止されている(平遺1319)。鎌倉期になると中津南荘・北荘という呼称が現れるようになるが,寛喜3年10月には本家はともに延勝寺(民経記)。鎌倉末期,尊勝院僧正坊が荘の領家職を相伝していたが,正中2年隣荘大安寺領淵荘との間に田畠の帰属をめぐる相論が起こった。この時大安寺側の提出した文書によると,中津荘四至内には,古く上東門院彰子領・陽明門院禎子内親王領・法隆寺領など権門勢家領が混在していたらしい(洞院部類記)。また鎌倉末期中津南荘内には,「本神田并今浜新田」と呼ばれる日吉社領が存在した(生源寺本日吉社領注進記)。さらに室町期になると同荘域内に今浜荘が成立している。現行の守山(もりやま)市服部(はつとり)町・幸津川(さづかわ)町・今浜町・水保(みずほ)町・立田町・笠原(かさはら)町のあたりか。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7134042