勧修寺
【かじゅうじ】

京都市山科(やましな)区勧修寺仁王堂町にある寺。真言宗山階派本山。山号亀甲山。本尊千手観音。「勧修寺縁起」(群書24)によれば,醍醐天皇が生母藤原胤子の菩提を弔うため,胤子の祖父宮道弥益の旧邸を寺とし,五大明王を安置するとともに,寛平法皇(宇多天皇)のために多宝塔を建立したのがはじまりとする。「日本紀略」延喜2年8月15日条に,勧修寺において「神筆法華経」を供養したがこれは胤子の菩提のためだとする。3年後の延喜5年9月21日には定額寺となった(扶桑略記)が,その時の太政官符に,当寺は胤子が生前「為令警護天皇陛下」に建立したとある。とすれば胤子の存命中寛平年間の創立ということになる。「諸門跡譜」(群書5)によれば,第1代を済高大僧都とし,第17代後伏見院皇子寛胤法親王以降法親王が入寺して寺格を高めた。平安期には寺辺山科郷に田畠山野合わせて257町余の寺領を有し,名田経営による支配を行っていた(保元3年5月10日付山城国勧修寺領田畠検注帳案,勧修寺文書/平遺2922,および永暦元年9月9日付太政官牒案,勧修寺文書/平遺3103)。平安末期・鎌倉初頭の成立とされる山城国山科郷古図は勧修寺の寺領四至を記したものと考えられている。「百錬抄」安貞2年6月19日条に「醍醐住僧二百人許発向勧修寺。伐客房焼払在家三宇」とあり,これは両寺の間に争いがあったことを示している。建武2年8月22日に勧修寺慈尊院が炎上(勧修寺文書)したが,同年9月17日には光厳上皇が寺領安堵の院宣を下して寺領の亡失を防いだ(同前)。その寺領には,加賀国郡家荘以下17か荘と同寺辺の田園が含まれており,膨大なものであった。室町期には末寺として願興寺・大宅寺・安祥寺があった。応仁・文明の乱で戦地となり,「親長卿記」文明2年9月2日条には戦乱のあおりを受けて「勧修寺等衆散在所々」と僧衆も散り散りになりつつあった。永正11年には三宝院領民がたびたび勧修寺境内を侵し,三宝院との間で西山越あたりでの境相論を起こしている(永正11年8月6日付室町幕府御教書/勧修寺文書)。こうして寺運もやや衰退に向かうが,豊臣秀吉が伏見街道を敷設した折に寺地が縮小したといわれ,徳川家康の時312石の寺領が安堵,以後朱印地として継承された(寛文朱印留)。ただし「京都御役所向大概覚書」には高1,012石とある。現在の本堂は寛文年中に霊元天皇から仮内侍所を賜ったもの。また元禄10年に明正天皇旧殿を移したという書院は国重文。寺宝には蓮花蒔絵経筥,紙本墨書仁王経良賁疏(伝空海筆)があり,ともに国重文。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7138091 |