清水坂
【きよみずざか】

旧国名:山城
(古代~中世)平安期から見える地名。山城国愛宕(おたぎ)郡のうち。松原通が鴨川を東に越えてから清水寺に至るまでの坂道をいう。古くは,「御堂関白記」長和2年2月18日条に,「検非違使惟任,宣明等来令申,月来清石(水)坂下毎十八日盗人取人物,依之今夜罷向捕得」と見える。清水坂には他の大社寺の参道の多くがそうであったように,いつの頃からか参詣人に物乞いをする乞食らが住みついており,坂者と呼ばれるようになっている。当時,公家らはことあるごとにこれら坂者に施行を行ったようで,「小右記」長元4年3月18日条に「清水坂下之者令施給(行カ)塩令申」と見えるほか,「山槐記」保元3年9月7日条には「清水坂非人乞施米,兼遣之由令仰」と見えている。かつては施浴も行われていたと見え,「兵範記」仁安元年9月1日条に「清水坂温室等 料米三石」と見え,「吉御記」元暦元年11月10日条にも「清水坂温室例事也」と見えている。また,清水坂に沿って堂舎・民家が早くから建ち並んでおり,「中右記」天永4年4月20日条に「蔵人弁送書状云,今朝清水坂房舎焼亡,而有放火疑」と見え,また同書の保安元年12月1日条にも「清水寺坂中僧房等夜半焼亡」と見える。鎌倉期に入っても「百錬抄」嘉禎3年10月28日条に「今夜六波羅地蔵堂焼亡,清水坂南方在家堂舎以下為灰燼」とあり,堂舎・民家が清水坂の近辺に建て込んでいたことがわかる。なお平安末期この清水坂には運送業者であった車借が住みついており,治承3年5月には,「件坂有車借」と,「祇園大衆」が喧嘩に及び,「坂南北」「三町許」が焼失するという事件が起こっている(山槐記,同年同月14日条)。南北朝の内乱では,貞和5年2月,「清水坂ヨリ俄ニ失火出来テ」,清水寺以下近辺の堂舎がことごとく灰燼に帰している。室町期になると応永33年2月16日付の北野神社酒屋交名のなかに「清水坂一木戸北頬」に店を構える「木春」なるものの名が見え,酒造業者(多くは金融業者を兼ねる)が清水坂にいたことが知られる。また「康富記」文安4年4月16日条には,「於清水坂酒屋一盞令張行之」とも見え,参詣者を相手に酒の小売りを行う酒屋が清水坂にあったこともわかる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7139468 |