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紫竹
【しちく】


旧国名:山城

(中世)室町期から見える地名。山城国愛宕(おたぎ)郡大宮郷のうち。大徳寺の北,大徳寺通沿いに位置した。宝徳3年3月27日,大宮郷地からみ帳(写)に,十郎・八郎・二郎四郎ら計13名の作人が,紫竹居住者として登場するのが初見(賀茂別雷神社文書)。戸数20程度の小村であったかと思われる。大宮郷内字塚本の田地2反に関する,明応2年7月5日の姫女田地売券に加判している兄与三郎家貞は,「紫竹寺内」に住んでいたと見える(大徳寺文書2)。このほか「大徳寺文書」には,永正9年10月25日,年貢未進によって「紫竹屋敷」を大徳寺如意庵に返付した,与七後家の屋敷地返却状や,真久なる人物が同庵領「紫竹之内山畠」を請作したことに関する,天文9年2月25日付作職請文,あるいは本所聖護院に対して如意庵が納付した「紫竹村本役地子銭」の請取状数通(天文3~8年のもの)などがのこり,紫竹村のうちに如意庵の知行地が存在したことを証する。戦国期から江戸期にかけて,紫竹の村は「大宮郷五か村」として,門前・雲林院・上野・大門の近隣諸村との間に1つのまとまりを持つに至っていた。永禄3年12月19日,新開水田の耕作・用水等のことについて,賀茂社の大宮郷司に提出された同郷年寄等連署条々には,他村の代表8名とともに紫竹の与三さ衛門ほか1名が加判しており(賀茂別雷神社文書),「大宮郷五ケ村として,昔より進退仕候御領草山之内を蓮台寺より押領」されたという事件に関する,寛永6年11月25日の陳状写には,紫竹村を含む5か村の年寄各1名が連署している(大徳寺文書5)。江戸期には大宮村内の小村。「天保郷帳」では紫竹大門村。現在の北区紫竹地区のうち。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7140706