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四天王寺
【してんのうじ】


大阪市天王寺区四天王寺町1丁目にある寺。和宗総本山。荒陵山敬田院と号す。荒陵寺・難波寺・三津寺ともいい,略して天王寺とも称す。本尊は救世観世音菩薩。草創について「日本書紀」用明天皇2年条によれば崇仏論争の末,物部守屋と蘇我馬子の間に戦いが生じ,苦戦している馬子軍に従っていた厩戸皇子(聖徳太子)は白膠(ぬるで)の木で四天王像を作り,守屋に勝つことができたならば四天王のために寺を建立することを誓願。戦勝を得て1寺を建立したことにはじまるという。また推古天皇元年条には「是の歳,始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」と記す。前者は「扶桑略記」の記述より西成(にしなり)郡玉造岸上,後者は現在地と考えられ,これによって玉造創建説・荒陵移建説が出たが,現在本格的造営の開始は推古天皇元年になされたものとされる。当寺の創建は「金光明経」四天王品の持国・増長・広目・多聞の四天王が「金光明経」を持する国王人民を守護するという思想に基づいたもの。任那日本府滅亡など対外関係の厳しい中,四天王は西面して金堂に安置されたと伝え,また難波津の岸頭にそびえる伽藍の偉容は,西方からの外国使節に国威を示したものと思われる。宝亀5年3月の太政官符(類聚三代格)に新羅が「恩義を顧みず,早く毒心を懐き,常に咒咀をなせり」として,当寺に四天王の塑像を造立安置。寺域は「荒陵寺御手印縁起」(続群27下)によれば「東西捌町,南北陸町,東百済郡界,南堀河,西荒陵岸,北三条中小道」であり,北西の隅に施薬院,北東の隅に悲田院,その間に療病院があった。伽藍は中門・五重塔・金堂・講堂を一直線に配した四天王寺式と呼ばれる伽藍配置。その後推古天皇31年7月新羅・任那の使節が献じた舎利・金塔・灌頂幡を当寺に納め,孝徳天皇の大化4年2月には仏像4体を塔内に安置している(日本書紀)。創建当時の寺領としては,用明天皇2年物部守屋の資財田宅があてられた(扶桑略記)が,その田地は河内国の弓削・鞍作・祖父間・衣摺・蛇草・足代・御立・葦原と摂津国の於勢・模(横)江・鵄田・熊凝にあったという(天王寺記)。舒明天皇4年寺封250戸(扶桑略記),天平6年寺封200戸,天平勝宝元年5月墾田100町を施入され,同年7月当寺の墾田の制限が500町に定められた(続日本紀)。神護景雲元年には和銅元年播磨国飾磨郡の墾田255町を収公した代わりに大和・山背(城)・摂津・越中・播磨・美作各国の乗田と没官(もつかん)田が喜捨されており(同前),播磨国においては飾磨(しかま)郡の草上駅の駅戸便田があてられた(同前,宝亀4年2月己未条)。宝亀元年4月称徳天皇の畿内10大寺への百万塔陀羅尼寄進が成就。当寺はその10大寺に含まれるとされる(続日本紀・東大寺要録)。翌2年9月当寺など12か寺と僧綱に公文書に用いる印を鋳造頒布(続日本紀)。白鳳・奈良期に朝廷より篤い保護を受けたが,承和3年落雷により堂宇を焼失(続日本後紀)。天徳4年にも火災にあった(日本紀略)。その間承和4年円行が初代別当に任じられ,以後別当が寺務全般を管理することになる(天王寺別当次第/続群4下)。その後も冷泉天皇より三昧院領として土佐国高岡荘の7郷を寄せられ(天王寺記),一条天皇中宮の上東門院・白河法皇・鳥羽法皇および中宮の待賢門院と皇后の美福門院などの参詣があいつぎ寺運は興隆(栄花物語・中右記・本朝世紀)。平安末期の浄土教の展開期において当寺が日観想の良地であったため,当寺の西門は極楽浄土の東の門にあたるという信仰が盛んになり,彼岸の中日には西門が極楽に通じると信じられ賑わいをみせた(中右記・台記)。養和2年正月園城寺(滋賀県大津市,俗称三井寺)学顕が当寺別当職を申請。鎌倉期の文治5年4月前権僧正で当寺別当の定慧法親王(鳥羽天皇皇子)の要請により,別当職は園城寺平等院に付与された(寺門高僧記/続群28上)。建久6年5月20日には源頼朝と妻政子が当寺に参詣し,別当定慧法親王に謁している(吾妻鏡)。同7年10月延暦寺の僧衆は「園城寺住侶の濫訴を停止し,以前の宣旨に任せて永く当山の高僧をもつて四天王寺別当職に補任」することを願い出ている(寺門高僧記/続群28上)。その後も延暦寺(山門派)・園城寺(寺門派)の当寺別当職相承に関する争いは絶えず,延暦寺とその門跡寺院である京都青蓮院は強訴を決行(百練抄,延応元年9月20日条・一代要記,建長元年8月14日条)。文永元年3月,当寺別当職は最終的に延暦寺に与えられている(一代要記)。また平安末期頃始まった住吉大社(大阪市住吉区住吉町)と当寺の安倍野境をめぐる相論(山槐記,永万元年4月27日条/大成)が,寛喜2年に再燃し(明月記),武力紛争にまで発展した(鎌遺4620)。永仁年間,奈良西大寺叡尊(興正菩薩)の弟子良観房忍性(鎌倉極楽寺開山)が石造鳥居を造立する(元亨釈書)が,正安元年作の「一遍聖絵」(2巻3段)には,鎌倉期の当寺伽藍が描かれており,忍性造立以前の木造鳥居が見える。南北朝期には後醍醐天皇が土佐国高岡荘3郷を寄進し(天王寺記),正平7年後村上天皇が当寺に参詣(府誌5)。同16年6月大地震により金堂を大破(愚管記)。大和国般若寺の円海上人に後村上天皇が勅を下して金堂を再建させた(太平記)。室町期の嘉吉3年正月に当寺衆僧間の闘争により太子堂・御影堂・鎮守15社・回廊・三昧堂などを焼失(看聞御記)。文明2年8月幕府は青蓮院に当寺領である広根・大原野・筌野・木津・畠野荘の直務を全うさせている(華頂要略/仏教全書128)。その後天正4年石山本願寺攻めで織田信長勢の陣とされ,兵火により伽藍を焼失する(同前/仏教全書130)が,同6年地子62石を下賜された(天王寺記)。同11年羽柴秀吉が再興のため銭500貫文を寄進(秋野坊文書/大日料11‐4)。同年11月秋野来迎院亭(享)順が復興をはかり勧進(同前/大日料11‐5)。文禄3年10月金堂領として大政所(秀吉の母)が100石を寄付(天王寺記)。この秋浅野長吉らが再興を奉行することになり(大日料11‐5),慶長5年3月再興が成就した(同上)。また同6年に豊臣秀頼が15石を寄進(天王寺記)。江戸期に入り,元和5年摂津国東成(ひがしなり)郡内で計1,177石余の朱印地を給わり幕府の保護を受ける(寛文朱印留)が,享和元年12月5日落雷により金堂・講堂・五重塔・回廊などを焼失。大坂白銀町の淡屋太郎兵衛が勧進に尽力して文化9年再建された(四天王寺由緒沿革記)。しかし昭和20年戦火のために諸堂を再び焼失。昭和38年までに現在の鉄筋の伽藍に復旧。もと天台宗寺院で日光山輪王寺や比叡山延暦寺の支配を受けていたが,昭和24年11月に和宗を公称,独立して現在に至る。昭和30~32年に行われた発掘調査では,各時代の堂塔位置がほとんど同一である事が判明。出土瓦中,最古の瓦は素弁8葉,弁端に点珠を有するもので百済系の特徴を示す。これと同型のものが法隆寺の若草伽藍址より出土していることから最初の伽藍成立年代は若草伽藍の建立に近い時期(推古30年代)と考えられる。境内には前記忍性造立の石鳥居・本坊方丈・五智光院・六時堂・元三大師堂・石舞台(国重文)などがある。寺宝として紙本著色扇面法華経冊子98葉・懸守7懸・丙子椒林剣・七星剣・四天王寺縁起2巻,慶雲4年の銘がある金銅威奈大村骨蔵器の6件の国宝,絹本著色聖徳太子絵伝6幅・源満仲(多田源氏の祖)の護持仏である千手観音及二天箱仏・銀製鍍金光背・金銅観世音菩薩半跏像・納曽利と陵王の舞楽面など多数の国重文を所蔵。1月14日に修正会の結願法要(かけ声から「どやどや」と俗称)があり,牛王宝印の厄除護符を奪い合う人々でにぎわう。4月22日には聖徳太子忌日法要の聖霊会があるが,聖霊会の時石舞台で行われる舞楽は昔から「何事も辺土は賤しくかたくななれども,天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」(徒然草220段)といわれ有名。当寺旧境内は国史跡に指定。なお,施薬院の旧地に別院の勝鬘院がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7150227