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猪名荘
【いなのしょう】


旧国名:摂津

(古代~中世)奈良期~戦国期の荘園名。摂津国河辺郡のうち。現在の尼崎市中央部。天平勝宝8年12月16日孝謙女帝が東大寺に勅施入させて成立。翌日の摂津職河辺郡猪名庄絵図(東大寺文書4/大日古)によれば,荘域は,東西は川,南は浜地に続き,北は口分田で,広さは46町6反225歩,ほかに墾田37町6反212歩・浜250町・野100町が追記されている。天暦4年11月20日付東大寺封戸庄園并寺用帳(正倉院蔵東南院文書/平遺257)では,田85町1反342歩。鎌倉期の建保2年5月日付東大寺領荘田数所当等注進状(東大寺続要録/鎌遺2107)では,見領田45町8反240歩,定田13町5反60歩・所当官物40石5斗6升。仁平3年8月9日付の東大寺諸庄文書出納日記(未成巻東大寺文書/平遺2785~2787)には,長洲開発田に近く橘御園にも隣接した「猪名新庄」が見え,同荘は野地村の地をさすと思われる。平安期以来,当荘は勅事・院事・国役賦課による種々の雑役・夫役の負担が大きく,たびたび免除を願い出て認められている。一方,鎌倉期の正安元年11月付東大寺年中行事用途帳(東大寺文書/鎌遺20308)には,「一,吉日別当坊御三十講六ケ日被行之……御捧物雑紙……猪名庄四百帖」とあり,戦国期にも同様のことが行われていた(薬師院文書永正15年10月日付倶舎三十講捧物雑紙差文案/新修大垣市史史料編2)。なお,鎌倉期~戦国期には,当荘内と思われる興福寺領猪名荘が見える。同荘は,「御参宮雑々記」文永2年10月条に,12月7日の春日詣のための「人夫召庄々」のうちに「猪名庄十二人」とある(内閣文庫蔵大乗院文書/鎌遺9372)。また,室町期の興福寺東金堂庄之免田等目録帳に「猪名庄〈卅六丁 十八石〉」とあり,年貢は反別5升にすぎず,ほかの領主関係が重なり,部分的な得分権のうえに成立していたものと考えられている(尼崎市史1)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7155714