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豊岡藩
【とよおかはん】


旧国名:但馬

(近世)江戸期の藩名。外様小藩。天正8年豊臣秀吉の旗下宮部善祥房が但馬征伐のとき但馬国城崎郡亀が崎の山上に築城,城下町の建設に着手,同10年地子を免除して商人の誘致を計ったが免状中にある「豊岡中」「豊岡町」が豊岡の初出。慶長13年には但馬豊岡城主の名が見える。宮部の後,城主は木下助兵衛尉・尾藤久右衛門知定・明石左近則実・福原右馬助直高を経て杉原伯耆守長房に至ったが,福原までは代官であった。杉原長房は城崎郡全部で2万石,他領を加えて2万6,000石とも2万5,000石ともいう。子長重が死んで継嗣なく所領収公,長重の女子に長房の娘の子重玄を迎えて旧領中円山川以西の1万石(別領を加えて1万5,000石ともいう)を賜ったが,重玄が若死して断絶。承応3年京都代官所領となり,寛文8年京極高盛が丹波国田辺から転じ豊岡に陣屋を構えて但馬国城崎・二方・気多(けた)・養父・美含(みくみ)5郡の中で3万5,000石を領し,弟高門に養父郡2,000石を分知,糸井京極家の祖とした。元禄15年2代高住は郭内宝谷の地に臨済宗大雲山(宝渓山とも)興国寺を建立,藩寺とした。これは所領替えによって支藩の地位を脱し,城主として築城を期したのにかなえられなかった不満を造寺で満たしたものと見られる。4代高寛の死後に後嗣なく断絶,弟高永が新規に城崎・二方2郡58か町村の中で1万5,000石を賜り,明治4年廃藩まで9代を数えた。寛文10年から延宝8年まで10か年かけて城崎郡領下の検地を実施,間竿は6尺5寸。延宝6年初めて藩札(1・5・10匁)を発行。元文元年,延享5年には札改め実施。文化8年正銀裏づけのない札場切手発行,文政3年銭札,同7年5厘切手発行。天保13年の銭札流通高987貫785文(約247両)。元禄末年の士分282人・小役人以下547人。享保の減知で187人の藩籍を削り天保藩制改革でもさらに減員した。慶応2年の士分107人・卒64人・その他160人。明治3年の士分99人・卒167人・その他11人。同4年士分94人・卒107人。天明2年の貢租収入は城崎郡分4,076俵余・二方郡分4,242俵余,計8,318俵余と冥加米80俵,小物成・諸運上5貫525匁余と米17石。末期の正租高は,元治元年5,605石・慶応元年6,747石・同2年2,451石・同3年6,708石・明治元年3,764石で,同4年予算試表による5か年平均正租高5,135石余・雑租245石余。慶応2年と明治元年の正租高の落ちこみは前年の苛酷な洪水被害を反映している。文久2年海岸防備のため津居山村に11インチ口径砲,瀬戸村(お台場の名を残す)と気比村に10貫砲を備えた。同3年平野国臣らの生野代官所襲撃事件に出兵,平野国臣・横田友次郎を召し捕った。柳行李産業を育成・奨励するほか,寛政10年の心学講舎含章舎,天保4年の藩学稽古堂,明治3年の女学校と小学校の開設で領民や家臣の教育に努めた。大石良雄の妻りくは筆頭家老1,200石の石束家の出。久保田譲(文部大臣)・浜尾新(文部大臣・東大総長)は旧藩士。城下町は小田井町のほか,地子免除地の下町・中町・宵田町・小尾崎町・寺町の5町に久保町・京口町・竹屋町・新町の4町が加わって10町となり,各町に名主を置いたが,新屋敷村と永井村を町分に加える。承応3年5町で312軒,文化13年868軒・3,721人。文政5年銀札引替えに渋滞をおこして領内不穏を惹起,同8年物価高騰などの不満から町方で騒動を起こした。減知後は城崎郡内の領分村部は上・下両組,二方郡領分でも2組に分けて4人の大庄屋を置き,1人あたり3人扶持を給付(寛政12年侍帳)。明治4年廃藩置県によって藩領は豊岡県となる。




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「角川日本地名大辞典」
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