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宇陀
【うだ】


旧国名:大和

(古代~中世)大和期から見える地名。菟田・宇陁・宇太・于太・宇多・于陁・于・宇田とも書く。奈良盆地の東南,宇陀山地の一帯に位置する。古代の宇陀は現在の宇陀郡の大部分を占める。ウダの語源については,ウ(大)タ(田)で,広い台地を意味する古語(日本古語大辞典),アタ(阿田・阿多・阿陁)と同義語であり,古代農耕に適した地域の称呼とされる(菟田野町史)。①宇陀下県。神武天皇東征伝承に,「菟田下県」に至り,その所を「菟田の穿邑」と号したとあり(神武即位前紀戊午年6月丁巳条),兄猾・弟猾は「菟田県の魁帥」とも見える(同8月乙未条)。なお,弘安4年長久寺縁起(大和志料上)に「宇陀県室生深山」,「万葉集註釈」所引「伊勢国風土記」逸文に「宇陀下県」とある。現在の菟田野町宇賀志付近に比定される。現在,宇賀神社(菟田野町宇賀志に鎮座)の東南で宇賀志川に合流するエナダ川の源流付近に「アガタ」の小字名があり,一方桜実神社(菟田野町佐倉に鎮座)の東方には「アゲタ」の地名が残り,いずれも下県の名残とされている(菟田野町史)。②宇陀上県。延喜9年11月15日民安占子家地処分状(内閣文庫所蔵文書/平遺202・203)に「上県二条給理里」と見える。上県は神武即位前紀の下県と対応し,大化前代に宇陀地方に設定された県の名称が10世紀まで残存したと推定される。また,前記文書によって条里制の施行を知ることができるが,延長6年3月17日安倍弟町子家地売券案(同前/同前225)や同年12月15日安倍弟町子家地売券(同前/同前230)にも「上県二条給理里」とある。さらに,貞元3年3月1日県仲子充行状案(東寺百合文書ツ/同前311)に「一処字檜牧地……在于陀郡上県二条肥伊里」と見えるところから,現在の榛原(はいばら)町檜牧付近に比定される。榛原町自明・檜牧には阿片(あがた)という小字が点在する(榛原町史)。県にちなむ氏族には県使首がおり(姓氏録大和国神別),県使首今主・県使首利貞・県使首扶実(内閣文庫所蔵文書延長6年3月17日安倍弟町子家地売券案/平遺225)などの名が見える。彼らは単に県利貞・県扶実(同前延喜9年11月15日民安占子家地処分状/同前202・203)とも記されるので,鎌倉期に檜牧荘の開発領主となった県氏と同族であったことが知られる(東寺百合文書め建久9年10月日七条院庁下文案/鎌遺1008)。③宇陀。神武天皇東征伝承に,神武天皇が踏み穿ち越えて「宇陀」に到着したので,その地を「宇陀の穿」と称したとあり,当地の豪族に兄宇迦斯・弟宇迦斯の2人がいたという(古事記神武段)。宇陀地方の地名は神武天皇東征伝承を中心として記紀に多く見える。すなわち,神武天皇が兄猾(兄宇迦斯)を征討した時に歌ったとされる戦勝の歌(久米歌・来目歌)に「菟田の高城」が見え,兄猾を誅殺させた場所を「菟田の血原」と称し,神武天皇が国見丘にいる八十梟帥を見つけたのは「菟田の高倉山」に登った時であった(神武即位前紀戊午年条・古事記神武段)。さらに,崇神朝には「宇陀の墨坂神」に赤色の楯矛を祀って疫病を防いだとされ(古事記崇神段),大彦命が崇神天皇の命により蝦夷を平定するため東国へ出征する途中,「兎田の墨坂」に到ると嬰児の泣き声を聞き,ひろいあげ,これを「兎田弟原媛」に養わせたともある(姓氏録河内国皇別難波忌寸)。垂仁朝には倭姫命が天照大神を鎮座させる所を求めて「菟田の篠幡」に至ったという(垂仁紀25年3月丙申条)。「皇太神宮儀式帳」(群書1)の同様な記述には「宇太の阿貴宮」とあり,「倭姫命世紀」(続群1上)には「宇太の秋志野宮」の東方で童女「宇多の大宇禰奈」に出会ったとされる。また,仁徳朝に速総別王(隼別皇子)が天皇の軍に追われて女鳥王(此鳥皇女)とともに逃げ込んだのは「宇陀の蘇邇」(古事記仁徳段)・「菟田の素珥山」(仁徳紀40年2月条)と見える。「万葉集」には「倭の 宇陀の真赤土の さ丹着かば そこもか人の 吾を言なさむ」(1376)と歌われる。「菟田川」(神武即位前紀戊午年9月戊辰条)や「菟田山」(皇極紀3年3月条)の名も見える。一方,宇陀地方を本拠とした豪族も多い。「菟田県の魁帥」であった兄猾・弟猾の兄弟のうち,兄猾は神武天皇に反抗したので殺されたが,弟猾は猛田邑を給わって猛田県主とされ,「菟田主水部」の遠祖と伝承される(古事記神武段,神武即位前紀戊午年8月乙未条・神武紀2年2月乙巳条)。仲哀朝には「挟杪者倭国の菟田の人伊賀彦」が見える。伊賀彦は天皇の筑紫行幸に従い,崗浦の水門に至った時,船が進まないので,天皇はこれを岡県主の祖熊鰐に問うと,浦口に座す男女神の心によるものであろうと答えた。そこで,伊賀彦を祝として祀らせたところ,船を進めることができたという(仲哀紀8年正月壬午条)。雄略朝には皇太后の厨人として「菟田御戸部」が見え,皇太后から天皇に献上され,朝廷の宍人部にされたとあり(雄略紀2年10月丙子条),鳥官の禽が「菟田の人」の狗のために食われたので,天皇は怒って面をきざんで鳥取部としたともある(同前11年10月条)。皇極朝には,「菟田郡人押坂直」が一童子とともに「菟田山」に登り,雪中に生えた紫の菌を羹にして食したことから無病長寿となったという(皇極紀3年3月条)。その他,氏族名に宇陀を冠する者としては,菟田首(古事記清寧段),菟田諸石(皇極紀2年11月丙子朔条),菟田朴室古(孝徳紀大化元年9月丁丑条),宇太臣(姓氏録和泉国皇別膳臣),宇陀公(大東急文庫所蔵文書大同2年正月28日三善深主墾田売券/平遺4328)らがいる。当地には宇陀上県・宇陀下県・猛田県や宇陀禁野などが設定されたことから,水取部・宍人部・鳥取部といった王権の内廷と関係が深い氏族が多く居住する。④宇陀野。推古天皇19年,菟田野で薬猟を行ったとある。鶏鳴時に藤原池のほとりに諸臣が集合し,会明(あけぼの)をもって出発した。粟田細目臣を前の部領,額田部比羅夫連を後の部領とした。諸臣の服色は冠の色に従い,冠に添える飾りとして,大徳・小徳は金,大仁・小仁は豹の尾,大礼以下は鳥の尾を用いた(推古紀19年5月5日条)。翌年も同日に薬猟して羽田に集まり,朝廷に参向したが,その装束は「菟田の猟」の如くであったという(推古紀20年5月5日条)。菟田野でおこなわれた薬猟とは,鹿の若角をとる猟とされるが,その行列・陣容や冠位に基づく服装は王権内における豪族の序列を確定し,王権の力を誇示するものでもあった。なお,「聖徳太子伝暦」(続群8)にはこの薬猟に関して聖徳太子が天皇の殺生を諫めた話が見える。また,「万葉集」に「宇陀の野」(1609)や「宇陀の大野」(191)が詠まれるが,「安騎の野」(45題詞・46)や「安騎の大野」(45)と同地を示すと推定される。平安期に入り,貞観2年には参議源融に詔して「大和国宇陀野」を賜うとあり,そこは「臂鷹従禽之地」とされている(三代実録貞観2年11月3日条)。元慶7年,禁制により宇陀野への入猟が禁止されている(紀略元慶7年3月己卯条)。さらに,「西宮記」巻8には禁野として北野・交野と並び宇陀野が見え,元亨2年成立の「蝉冕翼抄」(群書7)所々奏条に,河内国の交野禁野別当とともに宇陀禁野別当があげられている。古くから宇陀野は王権の直轄地とされ,狩猟の場であった。現在地について「大和志」は榛原町足立付近とする。ただし,「三箇院家抄」巻2によれば,「禁野」が上志那荘(現大宇陀町上品・下品付近)と松井荘(現菟田野町松井付近)に存在したとされ,現菟田野町古市場には「宇陀野」「宇太野」という小字名が存在する(宇陀野町史)。⑤宇陀神戸。伊勢神宮神戸の1つ。倭姫命が天照大神の宮処を求めて,「美和の諸宮」を発し,「宇太の阿貴宮」次いで「佐々波多宮」に座したが,その際,大倭国造らが「神御田并神戸」を寄進したとある(皇太神宮儀式帳/群書1)。倭姫命が「宇多の秋志野宮」に座した際,倭国造が采女香刀比売に「地口御田」を進めたともある(倭姫命世記/続群1上)。阿貴宮または秋志野宮は,現大宇陀町迫間に鎮座する式内社阿紀神社に比定されている(大宇陀町史)。同社は別名神戸名神とも称されるので,神戸もこの付近に設定されていたらしい。その後,「中右記」天治2年8月8日条に「宇陀神戸濫行事」と見え,「太神宮諸雑事記」(群書1)垂仁天皇即位25年条には天照坐皇太神が大和国宇陀郡に天降り座した時,国造が神戸を進めたという記事に対して,今「宇陀神戸」と号すると注記される。鎌倉期には「大和国宇陀神戸」として15戸が見え(神宮雑例集/群書1),「宇陀神戸〈国造貢進二宮御領〉」ともある(神宮雑書建久3年8月日伊勢太神宮神領注文/鎌遺614)。また,「神宮使上洛在京粮料等」として宇陀神戸に2石が割り充てられている(神宮雑書建久7年7月16日太神宮司庁宣/同前857)。「神鳳鈔」(群書1)によると「宇陁神戸」には「二宮御領白布十八段宛」「卅七丁三段三百歩。十一石二斗一升五合。内宮御祭御神酒代。白布廿一段。如先分定」の記載があり,「外宮神領目録」(続々群1)にも「宇陀神戸白布十八端内六月六端九月六端十二月六端 此外先分三端 新上分五石〈云々〉」と見える。さらに室町期の宇陀郡田地帳案(春日神社文書3)の秋山荘の箇所には「神戸明神御年貢」とある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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