阿須賀神社
【あすかじんじゃ】

新宮市新宮にある神社。旧村社。祭神は熊野夫須美大神・熊野速玉大神・家津美御子大神の熊野三神を主神とし,建角美命・黄泉道守神ほかを配祀する。飛鳥神社とも書き,以前は熊野速玉大社の摂社であった。新宮川(熊野川)河口近くの右岸にあり,徐福伝説で著名な蓬莱山(県史跡)の南麓に社殿がある。祭神は,江戸期以前は事解男命を主神とする説が多く(新宮市誌),また「続風土記」は大和国高市郡の飛鳥社祭神と同体と考えて事代主命としている。創祀は未詳だが,「長寛勘文」に引く熊野権現御垂跡縁起では,熊野三神は神倉峰に降臨後「新宮の東の阿須加の社の北石淵の谷に勧請静奉つ」り,ここではじめて結・速玉・家津美御子の名を明らかにしたとある(群書26)。この説は熊野神降臨説話として最も流布し,「熊野山略記」新宮縁起ではその年を孝昭天皇5年としている(熊野那智5)。以上のように当社の神については異説が多く,「続風土記」所収「愛徳山縁起」では,熊野神がまだ出雲の神であった時「越の舟泊」を造設中大鰐にのみこまれた,阿須賀神がそれを助けたという説話を載せている。おそらく当社は,もとは熊野川河口近くにある蓬莱山を海の神の鎮座地とした信仰があって,やがて熊野信仰の発展とともに様々な神格が付与されたものと思われる。昭和34年の伊勢湾台風の時,蓬莱山の倒木の根元から御正体が出土したため,翌年発掘調査が行われた。その結果経塚遺跡の存在が確認され,平安末期以降の御正体をはじめとする多数の遺物が発見された。おびただしい御正体のうち半数以上が大威徳明王像で,兵庫県神戸市湯泉神社蔵の熊野曼荼羅や「熊野山略記」新宮縁起に当社本地を大威徳明王とするのに一致する。「中右記」天仁元年10月27日条には,新宮参詣の翌日海辺より20町余り離れた「阿須賀王子」に奉幣したとある(大成)。室町期の「康富記」文安元年4月24日条にも「熊野皇子阿須嘉之社」とあり,中世には熊野王子社の1つであった。また「平家物語」巻10熊野参詣条によれば,平維盛は「飛鳥の社」に参詣したとある。鎌倉末期ごろには熊野三山の次に位置するほどの崇敬を集めたと考えられ,嘉元2年11月18日付代官三郎大夫正信請文は「若構虚言偽申上候者,熊野参所権現・阿須賀大行事之御罰於正信身中」に被るべしと起請している(熊野速玉)。阿須賀大行事とは「熊野山略記」新宮縁起にも見え,孝昭天皇23年に熊野楠山で三頭の大熊(熊野三神)を追った猟師是世のことであるとする。「園太暦」観応元年10月15日条に,阿須賀神がある女について託宣し,新宮神官らが強訴のために強行していた熊野神の神輿動座をやめさせたとあり,当社の当時における勢威をうかがい知ることができる。当社における神仏習合の姿は未詳であり別当寺等の存在も不明だが,「熊野年代記」には承暦2年に「八月飛鳥寺別当建之」とある(官幣大社熊野速玉神社御由緒調査書/熊野速玉)。また「続風土記」には当社内に「社僧行所」があり,明治40年に当社に合祀された中熊野地の宮戸神社は「続風土記」に「社僧は飛鳥行人なり」とあるから,当社所属の飛鳥行人なる社僧がいたと思われる。近世には熊野速玉大社に属し,社領も同社のうちから配分されていた。慶長6年12月30日の浅野幸長寄付状では,新宮社領380石のうち6石4斗余が「飛鳥社勤番料」とされた(熊野速玉)。「熊野年代記」には万治3年・享保17年・延享3年・明和2年に当社造営・遷宮があったと記し,またその後安政年間にも本社速玉大社と同時に造営があった(熊野山新宮御遷宮覚/同前)。明治期には熊野速玉大社から独立し,社名も阿須賀神社と改めて村社となった。例祭は10月15日(以前は9月15日)で,熊野速玉大社と一緒に行われる。神馬の渡御が中心で,当社から速玉大社に熊野神が遷座した故事にちなむと伝えられるが,「熊野山略記」新宮縁起をみると神輿の船渡御が中心的行事であり,もともとは海神の祭であったらしい。境内に新宮市立歴史民俗資料館があり,蓬莱山経塚出土品および境内弥生式遺跡出土品を展示している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7170247 |