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私都川
【きさいちがわ】


千代(せんだい)川水系八東(はつとう)川下流の支流で1級河川。若桜(わかさ)町・八東町・郡家(こおげ)町にまたがる扇ノ山(1,310m)に源を発して西流し,最上流の郡家町姫路の上流約1km付近から南西に向きを変え,明辺川を合わせ,落岩地内下流約1km地点で山志谷川を合わせたあと,更に数本の支流を合わせながら私都谷を北西流し,中流の上峰寺で三度向きを転じて南西流し,米岡と河原(かわはら)町との境界付近で八東川へ合流する。流長27.0km(指定延長23.1km・流域面積73.2km(^2) 県河川管理調書)。「和名抄」に「私部郷」と記され,江戸期も流域21か村が「私都郷」と称されている。「因幡志」に「私部」と「私都」とが並用されており,この頃から「私都」と書くようになったと推定される。中流付近の山麓には古墳群が見られる。中流~下流域は古代の因幡~山陽連絡道の開かれた所であった。最上流域の姫路は木地屋集落で,安徳帝を奉じて平家一族が居住した隠田集落ともいわれ,現在は交通不便から過疎化が進行中。中流域の下峰寺から右岸山すそを通り,国道29号の堀越峠を経て矢中溜池へ引水し,ここから鳥取平野南部の大路川上流域150町歩を灌漑する矢中土手用水がある。この用水路は室町末期の弘治年間,大路川流域の邑美(おうみ)郡杉崎の楮子山城主と私都川流域の八上(やかみ)郡奥谷比丘尼城主との間に縁組が整ったのを機会に,杉崎城主が堀越を越えて私都川からの引水を承諾させ,弘治年間か永禄年間頃に築造したもの。その条件として,比丘尼城主の領地である稲荷・門尾へ杉崎領の住民を移住させ,私都川周辺の湿原地帯を開田する約束を取り交わした。こうして,私都川流水の一部が大路川流域へ身売りする,いわゆる流域変更した水路と調節池を備えた合理的な用水体系ができあがった。当川の取水は,当時の定めによると,日の出から日没までは矢中土手用水へ流し,日没から夜明けまでは私都川流域へ流すルールが定められた。両地区に交わされたこのルールは室町・江戸・大正期まで続き,その後改めて交わされた協定では,矢中土手用水への取水は昼13時間,私都川流域へは夜11時間しか許されていない。400年を過ぎた今日でもこのルールは生活を支える水の尊さを改めて知らしめ,歴史ある水利調整として異彩を放っている(千代川史)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7175016