100辞書・辞典一括検索

JLogos

71

糀町
【こうじまち】


旧国名:伯耆

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治6年からは1~2丁目がある。江戸期は米子城下十八町の1町。もとは新町と呼ばれ,享保5年の絵図湊山金城米子新府には新町と見える。城下の北東部に位置する。城下東部を南北に走る山陰道に沿って南北に伸びる町人地で,北は博労町,南は道笑町と接する。町名の由来は,糀屋が集住したことにちなむ。現在も天保10年創業の世良屋,安永年間頃創業の景山屋が糀屋を営み,面影を残す。文化元年の下札では生高70石余,物成米42石余。幕末期の惣間数は229間7分,安政6年の調査では1丁目にあたる地が102間半,2丁目にあたる地が132間6分,ほかに1丁目姫路屋小路19間・高島屋小路21間・博労町境小路45間,市政所御備銀258匁。元禄8年の竈数は家持83軒・借屋74軒。明治2年には表竈98軒・裏竈65軒,人高593人(米子市史)。明治6年,1丁目と2丁目に分けられ,戸数・人口は1丁目94・357,2丁目91・340。当町では糀座が慶長7年以来会見(あいみ)郡内の販売権を得ていた。しかし,江戸後期には近在に糀屋が多数できたため,町方の商売に差しつかえるという理由で,在方の糀屋は文政元年と天保元年の再度にわたって停止させられた(県史10・11)。また,城下の入口にあたるため糀町は獄舎があり,牢番の町禄があった。寛永9年には制札場が設けられ,のちには目安箱が設置された。人々の注意を引くため諸種の鷹が飼われた。宝暦6年博労町居風呂屋孫右衛門方より出火し,博労町119軒,当町88軒を焼失(御国御目付日記)。嘉永元年糀町橋北西の小路槌之助方より出火し,町並みの東側竈5軒,西側竈6軒,小路の竈3軒が焼失(米子市史)。明治10年1丁目の獄舎跡に米子警察署設置,同42年改築。明治21年の戸数は農業20戸・商業67戸・雑業47戸の計134戸,地方税97円余・町費167円余・申合わせ費56円余を納める(米子市史)。同22年米子町,昭和2年からは米子市に所属。明治期~大正期には酒・肥料・砂糖・ローソクなどが売られた。大正11年~昭和12年まで2丁目地内で公設市場が開設。昭和10年1丁目の一部が昭和町・陽田町となり,2丁目へ博労町1丁目の一部が編入した。旧加茂川の氾濫による浸水の害は,昭和5年6月床下浸水が1丁目100戸・2丁目91戸,同6年8月は床下浸水が1丁目112戸・2丁目54戸。同9年9月の浸水では1丁目床上41戸・床下69戸,2丁目床上40戸・床下69戸。同40年米子警察署が米子駅前に移転,同50年隣接して県営武道館が完成した。世帯数・人口は,大正12年326・1,414(1丁目129・599,2丁目197・815),昭和30年443・1,819(1丁目190・784,2丁目253・1,035),同40年450・1,567(1丁目196・668,2丁目254・899),同50年340・1,003(1丁目173・465,2丁目167・538)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7175216