100辞書・辞典一括検索

JLogos

32

西町
【にしまち】


旧国名:伯耆

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は倉吉陣屋町の1町。陣屋町の西部,玉川右岸に位置し,南は武家屋敷地(仲ノ町),東は西仲町に接する。寛延年間の倉吉御陣屋図によると竈数56・間数176間。明治初年の戸数46・人口194(県戸口帳)。東西1条に並ぶ商人町の西端を構成し,米・油・酒などを扱うものが多く,遠藤家・徳岡家などの有力商人が軒を連ねた。現在残る棟札で最も古いものは元禄9年のものであるが,当町は元禄8年と寛延3年の火災によって罹災した。徳岡家は町年寄をつとめ巡見使の宿ともなった。油屋孫兵衛は,水根屋利兵衛とともに明和2年に設置された蝋座係りを命ぜられた。また,天保5年の久原山口両御番所出入荷物改帳控には,御座屋弥兵衛が木綿83個(1万3,940反)を出荷したと記されている(倉吉市史)。間口1間分の運上銀300匁(一部は75匁)は,慶応2年には500匁(一部は125匁)となった(倉吉市誌)。化政期から天保・嘉永年間にかけて,辻・遠藤家らは,鳥取から衣川長秋を招いて国学を学び,また紀行文学を生みだした。さらに丹後屋の主人中村世平の姉は,女子のみの寺子屋を開き,寺子約20名に習字を教えた。安政3年5月には当町から出火(倉吉町誌)。明治5年郵便取扱所が開設され,同10年に倉吉郵便局と改称,同21年に開局した倉吉電信局と合併して同23年には倉吉郵便電信局となった。明治16年久米郡第1連合戸長役場が設置された。同22年倉吉町,昭和28年からは倉吉市に所属。世帯数・人口は,同35年55・220,同55年50・157。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7176371