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宮下
【みやのした】


旧国名:因幡

袋川中流の右岸,稲葉山の南山麓に位置する。地名の由来は地内に鎮座する因幡一宮宇倍神社社地の下に位置することにちなむという。袋川は慶長年間鳥取城主池田長吉が鳥取城修築にあたって川筋を南に変更したといわれ(因幡志・鳥府誌),その際の閉切護岸跡の杭多数が存在したと伝える。「因幡志」は景行天皇の碩田の国を討伐した際に土蜘蛛を殺したという血田の地名が残り,また土蜘蛛族を追いつめたという追詰土居の名も残ると記す。因幡一宮の宇倍神社は集落の北側,稲葉山山麓丘陵上に祀られ,祭神は武内宿禰。貞観4年5月13日従五位下から正五位上になって以来数度の神階の昇進を経て,元慶2年には正三位を授けられた(因幡志)。社司は伊福部氏。天正年間に出雲尼子氏の浪人山中鹿介らによって一宇も残さずに焼かれた。この時稲葉山山麓にあった宇倍野山焼きの窯場も廃絶したと伝える(稲葉民談記・因幡志)。宇倍神社の東北の谷あい山腹にある岩常山無量光寺はもと天台宗で,宇倍神社の別当寺と伝承する。元弘の乱に後醍醐天皇に随従した政任ノ宿禰が開山となり,のち浄土宗となる。天文13年伊福部茂世朝臣が寺領6石余,山林38町歩を寄進したという。戦国の戦乱に宇倍神社同様破壊されて無住となり,古い寺伝宝物などは失う。安永2年寺の北側山頂から出土した伊福吉部徳足比売骨蔵器の銅蓋には「和銅三年,火葬」の銘が残る(重文,国立東京博物館蔵)。「因幡には因幡の山に因幡川」と古歌に詠まれた因幡山は(稲葉山とも書く),「稲葉民談記」は「大山ニツゞキ広キ野山也……古来ヨリ大キナル松山ニテ,翠樹陰深クツゞキシカバヨク歌ノ心ニカナヘリ」と記すが,「古今集」に載る在原行平(国司)の歌「立別れいなばの山の」以来,歌枕の地とされ,数々の古歌を伝える。山頂付近には宝篋印塔や五輪塔があり,また南北朝の頃刀匠因幡鍛冶景長が刀を鍛え屋敷を構えた地がある。
宮下村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
宮下(近代)】 明治22年~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7177113