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灘町
【なだまち】


旧国名:出雲

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治19~22年は松江灘町。江戸期は出雲国意宇(いう)郡のうち。松江城下の町名の1つ。松江大橋の南側,宍道(しんじ)湖岸の大橋灘とも称される所に位置し,商人の町である天神町の裏通りをなしていた。松江では旅客および荷物の足溜・荷揚場に適するように簡単な施設のあるところを灘と称した(松江市誌)。町内は北町と南町に分かれ,さらに北町には糀(こうじ)灘・大芦屋(おわしや)灘・来待(きまち)灘の通称地名があり,南町は大工町とも呼ばれていた。北町は船着場および海産物の荷揚場として栄え,問屋・仲買・魚店などが軒を並べていた。特に大芦屋灘は最も繁華な灘で,松江藩上納米を納める穀倉が置かれ,「赤提灯」と呼ばれる私娼を抱えた団子屋もあったと伝える。大工町は松江築城に尽くした大工職人18人の居住地としたところで,当地からは一目で松江城を見ることができたという。宝暦3年,のちに松平不昧好みの数々の名品を遺した小林如泥が当町で出生。如泥作の歳徳神の宮は松江随一と称されている。また蒔絵師勝軍木庵(ぬるであん)光秀も大工町の出身。文化8年以降防火組は白潟本町(しらかたほんまち)・魚町とともにへ組に属し,火消夫20人を常備したが,湖岸の当町は冬季西風が強く吹くためにたびたび火事が起こり,特に天保8年12月26日夜半の出火は751戸の町家と16の寺社が炎上するほど被害甚大であった。天保の大火後には桶屋惣七が復興の道幅拡張に努力したという。民法の起草者である梅謙次郎は当町の出身。安永8年の灘町の戸数345,安政5年の戸数356。明治4年島根県に所属。同9年の世帯455・人口1,519。同12年天神町・和多見町・寺町の小学校と当町の小学校が統合し白潟小学校となる。明治22年松江市成立に伴い同市の町名となる。同年の戸数457・人口1,604,大正12年の戸数355・人口1,376,昭和13年の戸数281・人口1,193。大正2年湖岸を埋め立て,白潟公園を造成。昭和2年の灘町大火により北部が全焼,復興の区画整理に四方文吉が尽力。昭和8年湖岸に水上飛行場を設け松江・城崎(きのさき)・大阪間の定期航空便が第2次大戦時まで発着。戦後は埋立地を拡大,市立病院・NHK松江放送局・松江青年センターなどが設立された。宍道湖大橋の完成により松江の交通の要衝を占めるようになった。昭和30年の世帯299・人口1,285,同35年の世帯327・人口1,343,同40年の世帯351・人口1,351。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7180453