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立町
【たてまち】


旧国名:安芸

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は広島城下中通組に属す。竪町・楯町とも書いた。広島城外濠の南,城の立町御門に通じる南北の通りに沿う町。これと直交する通りは八百屋が多く八百屋町と呼ばれた。町名の由来は,「知新集」に「平田屋本通すちを横町とし,それに対して立町といふか」とある。毛利氏時代は家中屋敷町で,福島氏時代以降町屋となる。寛永2年の家数改では本家40・借屋136,天和3年の切絵図では小間数189間余,家数49,うち八百屋3,医師・檜物屋・米屋・紺屋各2など。「知新集」によれば石橋1,町間数2町6間余,家数73・竈数68(本竈26・借竈42)・人数314。うち本道医3,白銀細工・表具師・愛敬物師・仕立物師・籠細工・釣灯張・桶屋・畳刺・筆結各1。世並屋は堀川町で荒物商を営んだが,宝暦4年当町に移り質貸に転じた。町内にはほかに干物青物商の木原屋・坪屋,酒造および干物青物商を営み代々藩御用を勤めた清洲屋,ねりもの細工花の製造を業とした丹波屋がいた(知新集)。真宗誓立寺はもと甲斐国にあったが,武田氏に従って仏護寺とともに沼田郡安村金山山麓に移転。のち同郡西原村を経て慶長年間立町に移る(昭和23年西区に移転)。明治11年広島区,同22年広島市の町名となる。同33年の広島繁昌記によれば商店5うち旅館料理商3。真宗崇徳教社は講演会場にあてられたり,その能舞台では各派の能楽が上演されるなど公会堂的役割を果たした(続がんす横丁)。大正6年の戸数177・人口606,昭和26年の世帯数174・人口616。同40年一部が本通となり,東魚屋町・平田屋町・播磨屋町・研屋町・胡(えびす)町・八丁堀・基町の各一部を編入。同55年中区の町名となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7189702