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中町
【なかまち】


旧国名:安芸

(近世~近代)江戸期~昭和40年の町名。江戸期は広島城下中通組に属す。「なかのちょう」とも称した。広島城の南方,西塔川と平田屋川の間の横町。北は西国街道の通る播磨屋町,西は西魚屋町筋に続く。町名の由来は不詳だが,中通組の中央部という意か。寛永2年の家数改には中町の名は見えず,寛永年間広島城下絵図では町の北側は浄土宗昌清院・真宗東派円証寺の2か寺,南側は武家屋敷。南隣りの武家屋敷地に戒善寺中ノ丁があるため両者は混同され,当町を戒善寺中ノ丁と称することもあった。明暦3年中通組の大火ののち,両寺はそれぞれ新川場町下(東寺町)・白神六町目に移転(知新集)。当町は火災のあと出来たものと思われ,同4年作成の明暦4年の切絵図には小間数133間余,家数20うち小瀬検校ほかの拝領家4・茶売3,ほかに紺屋・筆屋・革屋など。天和3年の切絵図では小間数133間余,家数19うち医師3,御役者多門・象眼屋・紺屋・茶屋・塗師・大工各1など。御役者多門は表19間,中に2間の通りのある建物で,浅野綱晟のとき(寛文12年~延宝元年)建設。能役者長谷川百十郎・長命彦之丞・金春市左衛門・鈴木半七が住んだ。その後幕末まで家は続き,長命家では舞台まであったという。また天明5年当町の世並屋清右衛門は喜多流謡曲に秀で,謡地頭を命ぜられ,しばしば城中に召し出された(新修広島市史)。「知新集」によれば町間数2町32間余,家数27・竈数82(本竈16・借竈66)・人数324うち桶屋・指物師各3,本道医・研職・大工・畳刺・塗物細工・傘細工・綿打各2,陰陽師・鑓細工・鉄砲台師・柄巻師・紺屋・仕立物師・筆結各1。明治11年広島区,同22年広島市の町名となる。同33年の広島繁昌記所載の商店は5軒うち旅館2。大正6年の戸数104・人口405,昭和26年の世帯数66・人口269。同40年袋町・本通となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7190078