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一ノ坂銀山
【いちのさかぎんざん】


山口市宮野上字金山に所在した江戸期の銀山。板堂峠の東数百mに位置する旧宮野村の金山谷一帯に分布する。標高420~520mの広範囲にかけて銀鉱まぶ(鉱穴)が点在し,確認されたものだけでも22か所,からみ(鉱滓)が散在する場所が3か所発見されており,分析の結果銀鉱精錬の廃残物であって,往古の灰吹法による吹き床遺跡と想定されている(山口市史)。開坑年代については,天正19年・慶長5年・慶長19年と諸説がある。天正19年説は,延享3年の幕府巡見使への書上,慶長5年説は,元文4年に幕府が諸国に命じた鉱山調査令に対する報告,慶長19年説は,同年毛利輝元が江戸在府の老臣に幕府の認許を求めるため与えた書状による。当銀山の開発が石見の大森銀山を失ったことが契機になったとすれば,その時期は慶長5年から同19年までの間と推定される(防長産業の歩み)。「地下上申」には,「木屋数三千軒程有之候由,上郎町三拾間(軒)有之たる由古老之者申伝候」,享保年間に記されたと推定される藩士国司広孝の見聞録に「一之坂銀山之次第……于今彼所ニ遊女町・魚屋町・八百屋町之跡壇ニ残り,其名を申伝候,俗にげざい場と申候も此かね山の間夫之居所をさしていふ由」と盛況ぶりがみえる。またこの見聞録には,一ノ坂銀山での銀貨鋳造も記されている。山奉行の天野又右衛門の天と又をとって「天又」と極印された天又銀で,現物は旧岩国藩主吉川家に1枚残るのみである。「注進案」も「銀山盛んなりし時ハ,遊女町魚屋町なとありて今も其跡存れり,呉服峠といふ所もあり,呉服店ありし跡なりとそ,清水の壇といふ所の下に四季に咲く杜若ありともいへり」と記す。現在銀山に関連した地名に,金山・女郎町・呉服峠が残る。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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