100辞書・辞典一括検索

JLogos

27

大浦
【おおうら】


旧国名:阿波

(中世)鎌倉期~南北朝期に見える地名。麻殖(おえ)郡のうち。嘉暦2年3月8日の種野山注進状案に,種野山のうちの名(みよう)の1つとして見える(三木文書/阿波国荘園史料集)。同文書によれば,当地には公方分の除在家6宇と定在家11宇の合わせて17宇の在家があり,公事銭5貫684文・名田分所当銭360文・名々懸糸84文目・三日厨白米6升3合(うち地頭名2升1合)・鳥菟分12(うち地頭名分4)・蔦ノセン6枝などを負担していた。南北朝期の貞和2年9月28日の某下文では当地のうちの宇津井歩名(現木屋平村木屋平の内宇夫または川井か)で名主職相論が起こり,結局覚盛という人物に宇津井歩名が安堵された(三木文書/徴古雑抄1)。覚盛の姓は不明であるが,同文書が三木家の文書として伝来したことから,三木氏と考えられる。一方,相論相手も南北朝期に大浦の木屋平を中心に活動する三木氏と同じ阿波忌部の一党木屋平(大浦)氏の可能性が高い。ただし,木屋平氏を平氏姓とする説もある。この時期,三木氏や木屋平氏(松家)の阿波忌部の一党は守護細川氏に属さず,南朝方として活動したが,一宮城が降り,正平18年に小笠原宮内大輔成宗が重清に退隠してから南朝方がその勢力を失い,細川頼之の平定は着実に進んでいき,当地の木屋平氏も応安5年11月21日に細川頼之によって「阿波国種野山大□(浦)内地頭国ケ弐□(名カ)」を預置かれるというかたちで本領を安堵され細川氏に降っている(松家文書/大日料6‐36)。守護が細川頼之の弟頼有に代わった翌年4月22日には木屋平新左衛門尉に対して同内容の細川頼有充行状が出されている(同前)。また同年7月25日には三木名が同じく頼有によって三木太郎左衛門重村に安堵されており(三木文書/徴古雑抄1),種野山の南党勢力は細川氏の支配に完全に服することになった。大浦の地名は現在,木屋平村に残っていないが,大浦内の地名として「コヤ平」「瀬津」(以上嘉暦2年3月8日の種野山注進状案),「宇津井歩」(貞和2年9月28日の某下文)などが見え,「コヤ平」は現木屋平村木屋平,「瀬津」は木屋平の瀬津原,「宇津井歩」は内宇夫または川井と考えられ,現木屋平村木屋平を中心とする一帯に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7195392