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高松藩
【たかまつはん】


旧国名:讃岐

(近世)江戸期の藩名。讃岐国東部を領有した家門中藩。居城は香川郡東の高松城(玉藻城)。天正15年に讃岐国に入部した生駒親正は,翌年から3年かかって香東郡野(箆)原荘の海浜に居城を築き,城名を山田郡の高松の地名をとって高松城と名付けた。寛永17年に生駒氏が生駒騒動によって出羽国の矢島へ転封されたが,同19年に松平頼重が12万石の領主として入部し,以後頼常・頼豊・頼桓・頼恭・頼真・頼起・頼儀・頼恕・頼胤・頼聡と明治維新まで11代・229年間続いた。松平頼重は御三家の水戸藩の出であり,中国・四国の諸大名の監視の任を帯びていたといわれる。藩領8郡・234か村・12万石の内訳は,大内(おおち)郡34か村・1万石,寒川(さんがわ)郡25か村・1万3,600石余,三木郡20か村・1万1,619石余,山田郡30か村・1万8,178石余,香川郡47か村・2万552石余,阿野(あや)郡35か村・1万7,639石余,鵜足(うた)郡のうち26か村・1万6,039石余,那珂郡のうち17か村・1万2,371石余(寛文朱印留),ほかに寛永19年には4万970石余があり,藩成立当初の実高は16万970石余であった(讃岐国御領分高辻帳)。実高の変遷は,寛文4年17万378石余,貞享元年19万4,799石余(同前),文化12年20万849石余(丸岡文書),天保5年19万6,264石余(天保郷帳),嘉永3年は田17万3,623石余・畑2万7,819石余の計20万1,442石余(地方纂要),明治元年20万1,743石余(旧高旧領)。なお宝永5年~正徳2年,享保6年~元文4年の2回にわたり,小豆(しようど)島・直島(男木島・女木島を含む)・満濃池御料が当藩の預り地となったが,享保6年の預り高は合計1万989石余,取米は4,893石余(穆公遺訓諸役書記)。同年頃の年貢収入は8万627石余,うち5万3,874石余が家臣知行米にあてられ,残り2万6,753石余が世帯方収入であった(同前)。寛永19年城下町の町人・職人の家数1,865・人数1万2,966(男6,537・女6,429),寛文7年の人数は男1万437・女9,989の計2万426(随観録),天保9年は町家数5,991・同人数2万4,922(男1万2,893・女1万2,029),同年の家中屋敷数484,家中人数は侍分1,967・足軽以下3,306の計5,273(御領分明細記)。藩領全体の人数は元禄9年男10万7,742・女9万1,327の計19万9,069(増補高松藩記),天保9年25万1,152(御領分明細記)。なお延享3年の在郷の家数4万975,人数は男9万1,360・女7万6,501の計16万7,861。また,同年頃の溜池5,100,藩有林286,百姓自分林4,145,百姓藪8,723,真綿運上54貫340目,興炭824石,酒屋数75,馬1,818,牛1万3,346,寺279(うち真言宗119・一向宗126など),神社1,049,塩田80町,塩釜屋数143(御巡見御答書)。天保9年の塩釜屋数291,船数313(丸岡文書)。初代藩主頼重の時代に領内支配体制の基礎固めに努め,城下町の拡充・整備を推し進め,正保2年上水道を敷設した。寛文7年,生駒氏時代に西島八兵衛によって手がけられていた城下東方の木太郷,古高松郷の北の海浜を埋め立てて新開が完成した。また正保2年に大旱魃に見まわれたために溜池の築造を行い,406の新池を築き,領内の溜池の総計は1,366になったという(増補高松藩記)。この時の溜池の築造に活躍したのが矢延平六である。寛文5~11年にかけて検地が行われ,検地終了年の寛文11年が亥年であるところから,この検地を「亥ノ内検地」と呼んだ。この時の検地帳が75年後の寛保元年改めまで使用された(木村文書)。この「亥ノ内検地」によって藩の農民支配が確立したと考えられる。寛文4年以降貞享元年までに2万4,421石余が増えたが,「亥ノ内検地」によって打ち出されたものといえよう。第2代藩主頼常の代,元禄15年城下中村の中野天満宮南に藩校として講堂を建て,家臣の子弟や城下の庶民を集めて藩儒十河順庵・根本弥右衛門に儒学を講義させた。講堂は享保年間頃に一時廃止されたが,元文2年に復興され,安永8年に中野天満宮の北にこれまでに倍する規模の藩校を建て,講堂館と称した(増補高松藩記)。講堂館の初代総裁となったのは後藤芝山であり,その門弟柴野栗山は幕府の儒官となった。元禄年間に藩財政が一時悪化したが,この財政難を乗り切るために,家臣への知行米渡しを4割から3割に削減して支給し,徹底した質素倹約政治を行った。この結果宝永元年頃には藩財政は好転しはじめた(同前)。この時の倹約政治がのちの財政再建の手本とされた。しかし享保10年頃に藩財政は再び逼迫し,以後3年間の知行米渡しの2割支給を実施した。同10・11年に一部の藩士の禄の打切りを行ったが,これは家臣の浪人化であり,「享保の大浪人」といわれ,享保11年には120人にものぼった(消暑漫筆)。同16年,連年の凶作のため在郷の百姓らが毎日数百人城下へ入り家臣の屋敷を物乞して回ったといわれる。第5代藩主頼恭の延享3年には家臣への知行米渡しを中止し,生活に必要な最低限の扶持米支給を3年間行うことにしているが,藩財政は好転せず,宝暦年間に入るとますます深刻となった。そのため同5年に山田郡西潟元に塩釜屋25軒の亥ノ浜塩田を築き(随観録),同7年には藩札を発行したりして財政収入を増やそうとしている。同9年からは家臣の知行米渡しは2割支給とするとともに緊縮財政を実施した。倹約の結果残った分を江戸・上方・国元の借銀返済に充て,また御側諸経費の倹約分は御金蔵へ納めることにした。この宝暦年間の財政改革は同9年から5年後の明和元年頃に成果が現れはじめ,同9年には軍用金・撫育金もある程度は貯えられたという(増補高松藩記)。延享4年藩は城下西通町の柏野屋市兵衛の申請を入れて綿運上を課したが,寛延元年これに反対する領内西部の那珂郡・鵜足郡の農民が柏野屋宅へ押しかけ,綿運上賦課の代わりに肥料貸付けを要求したが,いれられなかったため打毀を行った。翌2年には領内東部の農民が生活困窮を訴えて城下へ押しかけたため,藩は農民の負担を軽減し,救米を支給することにしている。同8年には領内東部の農民が旱魃による救済を求めて城下の郷会所へ訴え出ている(尾崎卯一関係史料)。享和元年藩は藩札の貸付けによって収入を増やすという藩札通用策を採用した。これを「享和新法」という。藩札の貸付けには,家臣貸付け,領民貸付け・国産品生産資金貸付けがあったが,年月を経るにつれて藩札貸付高が増え,大量の藩札が出回るようになり,ついに札会所での藩札と正貨との交換にこたえられなくなり,藩札の価値が下って藩内の経済は混乱していった。しかし国産品生産資金貸付けだけは領内の国産品生産を盛んにする役割も果たした。寛政元年に向山周慶らは砂糖製造に成功し,同6年藩は砂糖の生産奨励を行うとともに領外売りさばきの座本に城下の香川屋茂九郎を任じた(大山文書)。以後領内では白砂糖をはじめとする白下地・焚込・蜜など砂糖の生産が盛んとなり,天保5年には1,120町に甘蔗(砂糖黍)が植え付けられ,慶応元年には3,807町と増えていった(讃岐糖業之沿革)。天保初年に大坂へ積み送られてきた和製白砂糖のうち高松藩産が5割4分を占め(大坂商業史資料),藩を代表する特産品となった。文化14年に幕府から京都御所への使者を命じられたことなどによって財政困窮に陥り,翌文政元年に家臣への知行米渡しを2割にするとともに(増補高松藩記),同2年には大坂商人加島屋市郎兵衛から借金し,その返済には大坂で売り払った砂糖代金を充てることになった。船頭や荷主が大坂で砂糖を売却した代金を加島屋へ納めさせ,藩地の砂糖会所で代金に相当するものも藩札で渡すという方法であった(渡辺文書)。加島屋納めは翌年には変更されるが,これ以後砂糖に対する統制は財政難を克服する方法として行われ続けた。また収入増加策として文政9年に久米栄左衛門に命じて阿野郡北の坂出村に塩田を築造させ,同12年に完成した。これが坂出(さかいで)塩田で,総面積97町余・製塩高27万8,000俵,1年間の口銀・冥加銀などの収入は銀130貫余であった(続筐底秘記)。しかし文政年間末には江戸・上方などからの借銀が50万両となった(増補高松藩記)。文政10年から財政改革に乗り出したが,その一環として藩札の信用回復のために大量に出回っている藩札の回収に迫られた。同11年年貢米4,300石を領内の富裕な農民や町人に買い取らせ,その代金を藩札で納めさせたり,領内の御林80か所を売り払い,同じく藩札で納めさせている。同12年からは家臣への知行米をそれまでの知行高の2割から1割7分支給とし,また領内に御用米を課した。天保3年には以後3年間江戸・上方などの借銀返済を行わないことにし,同時に3年間領内へ御用米銀を課している。藩札の信用が回復する中で,同4年には新藩札を発行して金1両について藩札60匁の通用を命じた。これらの施策の上に天保年間の財政改革の総仕上げともいうべき砂糖為替金仕法が打ち出された。借銀返済猶予の切れる天保6年から以降の返済資金を確保するために行ったものであり,海岸部に9か所の砂糖会所を置き,ここを通して希望する生産者・荷主に砂糖生産資金として藩札を貸し付け,貸し付けられた者は砂糖を大坂の高松藩蔵屋敷内に置かれた大坂砂糖会所へ送り,その代金を大坂蔵屋敷へ納めるというものであった。そして藩地の砂糖会所で砂糖為替金と大坂蔵屋敷へ納めた代金の決済をした(同前)。この砂糖為替金仕法は成功し,天保年間末には藩財政を再建することができた。この方法は明治初年まで続けられた。天保5年に鵜足郡の宇多津村で米穀の買占めをしていた商家が打ちこわされ,続いて隣村の坂出村で一揆が起こり,大庄屋・番所役人・商家などが打毀に遭った(民賊物語)。この一揆は坂出塩田の新開の零細な製塩業者が中心となって起こしたものであるといわれる。また同7年に砂糖への賦課などに反対して大内郡の砂糖生産者農民600人余が与田川の堤防に集まり,城下へ向かおうとして田面峠を越えて寒川郡を西へ進んだが,富田で庄屋らに説得されて引き揚げている(大川町史)。慶応4年(明治元年)正月の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍に参陣していたため明治新政府から朝敵とされ追討軍が向けられた。このため藩は責任者として家老小夫兵庫・小河又右衛門に切腹を命じ,藩主松平頼聡は高松城を出て浄願寺へ入って謹慎した。征討軍となった土佐藩兵は,丸亀藩兵・多度津藩兵を先鋒として高松城下へ進駐し,高松城を接収した。しかし2月終わりに嘆願が新政府に聞き入れられて許された。明治初年の正税10万7,924石余,雑税金2万1,351両余,戸数7万2,582うち士族701・卒族4,486,人口30万5,191うち士族1万122・卒族1万7,851(藩制一覧)。明治4年廃藩置県により高松県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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