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津倉村
【つくらむら】


(近代)明治22年~昭和29年の越智(おち)郡の自治体名。瀬戸内海中央の大島中央部に位置し,北西と南東は瀬戸内海に面する。本庄(ほんじよう)・八幡(やわた)・幸(さいわい)新田・仁江(にえ)村の4か村が合併して成立。大字は旧村名を継承し,4大字を編成。村役場を大字幸新田に設置。地名は,中世大島中央部が吉浦方と呼ばれて醍醐寺の荘園であった頃,年貢は船石港から積み出したが,当時の港は遠浅のため船着場まで入れず,今の津倉の東岸に岸壁と倉庫を設けていたことによる。成立の際,旧本庄村の県への嘆願により,大山村内の旧福田村地先の向堀塩田8町余が従来通り飛地として大字本庄に所属。また大山村内の旧泊村の鳴滝山官林の下草刈も,本庄村の主張により,明治24年1か年は95銭で入山を認めさせている。戸数・人口は,明治37年679・3,780,大正10年712・4,069。昭和25年の世帯877・人口4,192。大字仁江・幸新田の穀倉と塩田12浜24町を持ち,明治期から昭和初期にかけて各種の産業が発展し,村の黄金時代をつくった。物産の除虫菊は大正3年に導入され,昭和11年48町余に作付けした。大正13年50余戸で養蚕組合をつくった。大正期には肥育牛の大島牛を約230頭飼育。昭和11年の出稼者をみると男は塩田工192名(村内での従事者は別に272名)が山陽地方へ,その他酒造68名,店員76名,女は職工22名,女中75名などがあり,村内でもタオル,酒造業・麦稈真田などの工業も盛んであった。大正10年電灯がつく。翌11年津倉宮窪新道が完成。昭和3年幸港の大改修が行われ,今治(いまばり)~尾道(おのみち)(広島県)間航路の寄港便が増加し,昭和10年当村は船舶108隻を保有。昭和6年村内を乗合自動車が運行を開始した。同29年亀山・渦浦(うずうら)村および大山村の一部と合併して吉海(よしうみ)町となる。各大字は同町の大字として存続。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7202157