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水通町
【すいどおちょう】


旧国名:土佐

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は高知城下上町の1町で,明治初年上街,同22年からは高知市の町名となる。上町のほぼ中央に位置し,東は郭中と上町を隔てる外堀から,西は城下出入口の1つである思案橋に至る。北は本町,南は通町。町名は,町域の中央を用水が流れていることに由来する。「高知風土記」によれば,東西500間・南北40間,家数260軒,当町にはもと紺屋が居住し,その頃には長さ500間・幅5尺の流水が金子橋で外堀へ落ちていたが,近年樋が作られ郭中へ通じたという。郭中の用水としても利用されたこの流水は,城下の西方,杓田村の水神堂に設けた水門から鏡川の水を取水した。なお当町などの上町は江ノ口川沿いの北から漸次南へ開かれたと思われ,寛永~慶安年間の古図では当町はまだ北側のみの片町として記されているという(高知沿革略志)。天保12年の城下町絵図では,外堀沿いに北の本町から南の通町まで魚類小売所の魚棚が続き,魚棚を抜けた道はまっすぐ西へのび,西詰で屈曲して思案橋に至り,思案橋には他の城下出入口の山田橋・三ツ頭とともに番所が置かれている。延宝9年幕府巡見使への対応として作成した絵図の覚書によれば,万治3年の上り図は町普請未成就時のもののため西の入口をまっすぐに描いており,このたびは普請どおり屈曲に訂正したという(皆山集)。なお魚棚は郭中防火線のふくみもあったという(高知沿革略志)。「高知風土記」による当町分の魚棚は,南北18間並に2間1尺。饅頭屋長次郎と呼ばれ,のち切腹した海援隊士近藤長次郎は当町の出身。当町西端の5丁目には民権政社の南嶽社があり,明治11年大川筋の南洋社と合併して嶽洋社となり,北奉公人町に移転。同18年2丁目に同社南部社屋が新築された。世帯数・人口は,昭和6年388・1,465,同40年375・1,102(男475・女627),同56年15・36(男14・女22)。昭和41年住居表示実施により,一部が上町1~5丁目となる。同47年一部を升形に編入。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7206298