国府
【こくふ】

旧国名:筑後
(中世)南北朝期~戦国期に見える地名。筑後国御井郡のうち。高良山の北西麓,現在の久留米市御井町付近と推定される。中世筑後の国衙所在地に因む地名。中世の筑後国衙がどのような機能を果たしていたのか明らかではないが,小代光信軍忠状(詫摩文書/南北朝遺1498)には,建武3年5月に「大将軍筑後国府御座之間」と見え,同4年2月の荒木家有軍忠状(近藤文書/同前833)には「去月十二日,筑後国府於自御下向」とあり,その時「国符(府)栗屋口辻固」に勤仕したと上申している(同前/同前893)。また正平6年10月25日の田原氏能宛五条頼元書状(入江文書/同前3228)にも,「御所可被召陣於国府候」とあることなどから,南北朝期に探題一色範氏や征西将軍宮が,いずれも軍事行動の途上で筑後国府に滞在していることがわかる。一方戦国期の文亀2年3月3日の大友義長袖判草野太郎分知行坪付(草野文書/県史資料4)には「国府六町」が見え,また永正6年11月には「南国府六町」が高良社の神領に安堵されるなど(高良山関係文書/県史資料7),国府域の一部が国人草野氏の知行地や高良社の神領に充てられるようになる。なお高良社領の南国府については,永正年間に堤越前守や草野興秀・星野長泰らの国人が,相次いで違乱を企てており,そのつど社家側はこれを守護大友氏に訴えてその維持に努めた(鏡山文書/大友史料14)。天正11年3月28日の高良山大祝領坪付(高良山関係文書/県史資料7)に「三井郡之内国分,一所六町」とあるのは,すなわちこの南国府6町のことと思われる。因に南国府のことを南国分と表記している例が星野長泰宛大友氏奉行人連署書状(同前)に見られる。ところで,南国府については,高良大社に伝わる「高良玉垂宮神秘書」に,「初メノ符(府)ハ朝妻ノ下ニアリ,白河院七十二代延久五癸丑年今ノ符ニヒカルゝナリ,モトノ符ヲ古符ト申也」と国府の移転に触れているが,近年の発掘調査によれば,朝妻(御井町)の南方に当たる横道遺跡が中世の国衙遺構と推定されていることから,この地が「今ノ符」即ち南国府に比定され,従って草野氏知行の国府6町は「初メノ符」即ち朝妻の国府跡に比定されよう。いずれにしろ双方とも近世には府中町の一部に包括されて,国府の地名も消滅した。なお,建武2年のものと推定される10月26日の後醍醐天皇綸旨に「筑後国竹野庄内古国府并末納堀切」とあるが(西大寺文書/大和古文書聚英),この古国府は,建武3年の先の小代光信軍忠状の「国府」に対する旧国府の意味であろうが,詳細は不明。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7211107 |




