納富分
【のうどみぶん】

旧国名:肥前
鹿島川支流中川の扇状地に位置する。かつての中川は現河道の南側を貫通していたと推定され,その名残を示す南川や古川という地名がある。地内には縄文・弥生時代の遺物が多数発見され,納富分遺跡からは縄文後期の御領式土器,黒曜石製の石鏃,安山岩製の石匙,蛇紋岩製の磨製石斧,安山岩製の打製石斧,石錘などのほか,多くの黒曜石剥片が出土している。とくに縄文末期に属する十字形石器は県内では佐賀市金立町大門遺跡とこの遺跡の2か所から発見されているにすぎない。字木宮の水田中にある2基の石祠は「木の宮社」と呼ばれ,正応5年の「河上神社文書」に見える肥前国の木宮であろうといわれ(鹿島市史),また古代当地方葛津立国造であった紀直の系譜である若彦命とゆかりのある「紀の宮」と関係の深い社であるともいわれる(郷土のあゆみ)。さらに古代における国衙や郡家などの印や鍵を納めた所を意味する印鑰(いんにやく)という小字や印鑰天神社が残り,これは当地が古代藤津郡能美郷の行政上の中心地であったと考えられる。鹿島地方最大の鬼塚古墳・金剛勝院・真義真言宗本山誕生院など重要な遺跡が集中している。辻宿と呼ばれる街並みもこれらを背景として生まれた最も古い集落と考えられる。神社は琴路(ことじ)に長禄3年に勧請された琴路神社,行成には琴路(きんろ)神社があり,それぞれ三河内(みかわち)の三岳神社の中宮・下宮となっている。神社名の由来は,仁治2年琴を渓流に流してその留まる所に下宮である琴路(きんろ)宮を建て,後に中宮として建てた琴路(ことじ)宮と音訓で区別したという(三岳宮縁起)。路傍には天和3年建立の観音講衆塔があり,土地の人々は「泣きびすさん」「泣子観音」と呼び,泣く子に困った親がお詣りすると効き目があるといい伝えている。これは文明9年大村日向守家親が居城する蟻尾城が小城の千葉介胤朝の勢力に攻められて落城した際,家親の幼児が乳母とともに逃げのび当地に潜んでいたが,幼児の泣き声で発見されて討たれ,後に里人が霊を弔うため当地に観音を祀ったことに由来するという。
【納富分村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【納富分(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7218115 |




