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五島藩
【ごとうはん】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の藩名。福江藩ともいう。肥前国松浦郡福江島の福江に居城を置いた外様藩。藩主は五島氏で,柳間詰。天正15年宇久純玄が豊臣秀吉から旧領1万5,000石余を安堵されたことが藩のおこりである。純玄は文禄元年に姓を五島氏に改称したことから,五島藩と称されるようになる。以後,藩主として玄雅・盛利・盛次・盛勝・盛暢・盛佳・盛道・盛運・盛繁・盛成・盛徳と継承して明治維新に至る。初代純玄は,戦国期に宇久島から五島列島の中通島・久賀島・福江島などに進出したために,所領関係が複雑な構造をとることとなって,近世期になっても平戸松浦氏と複雑に入組む地域が生じた。五島氏の主たる所領は福江島・久賀島・奈留島・宇久島と中通島の南西部一帯および中通島の二方領・三方領である。二方領・三方領とは年貢を松浦氏と二分・三分する地域のことである。関ケ原の戦では2代玄雅が静観したことで旧領を安堵された。五島列島全体は東シナ海で囲繞され,列島中には山岳が多いため生業は漁業であり,漁業と海の支配権をめぐって中世以来松浦党の一員としての在地土豪が割拠し,兵農分離を困難にしていた。慶長17年3月玄雅の後継者となった盛利は,兵農分離策として福江城下に家臣を居住させる「福江直り」を政策化することとなったが,大坂冬の陣,同19年8月福江江川城焼失などによって一時中止せざるをえなかった。盛利は石田浜に江川城の仮城を築き,また元和3年9月に領知朱印状で1万5,530石・55か村の領地を得,「福江直り」を実施していったが,元和5年前藩主玄雅の孫大浜主水による事件が起き,再度の一時中止となった。大浜主水事件は,同7年に幕府裁決によって盛利の勝利となって,領主権の確立が急がれることとなり,「福江直り」に着手された。寛永10年代までに家臣の福江城下居住をほぼ完了し,家臣の知行高を確定した。家臣総数177名,総知行高9,225石,蔵入地5,095石で,家臣は家老330石以下とし,その8割は40石以下の構成とした。一方,領内総検地を施行し,百姓を給地・蔵入・寺・浜・竈百姓に確定した。浜百姓は専業漁民,竈百姓は塩業に従事する百姓である。幕府から課された重大な任務は異国船警備番役で,代わりに参勤交代が免除されたほどである。異国船遠見番所は福江島に三井楽(みいらく)泊の他に3か所,黄島,奈留島,中通島の奈良尾福見の他2か所,新番岳,宇久島の合計11か所が置かれ,また島廻定番として東・西南・北目島廻と,のち富江領廻りが定番化され,さらに在郷番として本山村(12番),岐宿(きしく)村(21番),玉之浦(20番)が設置され,常備番が詰めるというように厳重化された(五島編年史)。寛永19年藩主盛利が退隠し,長子盛次が継嗣して五島氏で初めて長子相続制がとられ,盛次は藩政確立策を打ち出していった。正保2年には国絵図の作製を行い,全田畑高1万5,530石(田7,878石・畑7,251石)と塩竈運上高375石,獵成25石を確立した。実高は万治2年では表高を約4,000石上回った。また慶安4年家臣序列を改め,譜代重臣を取りつぶした。蔵入高が9,386石,給地高6,615石とし,蔵入地は高生産地帯の宇久島・福江島の南西部,魚目・奈留地域として財政確立を目指した。この家臣序列が幕末まで続いた。海岸防御体制では,特に城下に一番町・二番町・三番町を設けて弓衆・鉄砲衆・長柄衆を居住させていった。盛次が急逝すると,幼少の盛勝の後見役に叔父盛清が就任した。盛清は後見役の条件として3,000石を得て以後5年間藩政を牛耳ったが,万治3年12月盛勝が成人すると,幕府は全五島領知高の5分の1を分知して旗本領として独立させることとした。分知作業は進展しなかったが,幕府の仲介で寛文元年に決定した。五島盛清は居所を富江と定め,3,000石は現有高で分割し,水主・船・山浮所務は3,000石に応じて分割することとなった。盛清は富江・田尾・椛島・青方・魚目・宇久・小浜・神之浦・飯良村の3,664石,浮所務銀19貫673匁,百姓301人前,水主176人前を領有し,五島列島の一等の平野地域のみならず,五島第一の漁場玉之浦と魚目村を獲得した。この魚目村の漁場問題から捕鯨業をめぐって有川村と漁場境争論が展開されることになった。この旗本五島氏の知行地は,富江領と称される。この結果,「寛文朱印留」に見える当藩の朱印高は1万2,530石余,村数56か村(ただし,16か村は塩竈運上高)となり,その村名は福江村・籠淵村・奥浦村・六方村・久賀村・蕨村・崎山村・赤島村・本山村・堤村・野々切村・大浜村・黄島村・玉浦村・大宝村・荒川村・小川村・小川幾山(おがわいつくやま)村・島山村・浜畔村・貝津村・柏村・牛浦村・嵯峨島村・鬼(岐)宿村・河原村・白石村・唐船浦村・幾山村・奈留村・船廻村・大串村・相浦村・夏井村・庵三郎村・日島村・浦内村・若松村・宿浦村・土井浦村・有川村・供栖(友住)村・大田村・太(鯛)浦村・高(神)浦村・江浜村・赤尾村・小河原村・平村・太田江村・飯良村・木場村・手羅(寺)島村・見加農(三日ノ)浦村之内・荒川村之内・今里村之内とある。藩では領内支配のために村々を掛と呼ぶ広域行政単位にまとめ,はじめ14,のち13の掛に区分した。この掛の編成は,福江掛が福江・籠淵・奥浦・六方の4か村,久賀掛が久賀・蕨の2か村,崎山掛が崎山・赤島の2か村,本山掛が本山・堤・野々切の3か村,大浜掛が大浜・黄島の2か村,玉之浦掛が玉之浦・大宝・荒川・小川・小川幾山・島山・中須の7か村,三井楽掛が三井楽・浜之畔・貝津・柏・牛之浦・嵯峨島の6か村,岐宿掛が岐宿・川原・白石・唐船浦・幾山の5か村,奈留島掛が奈留・船廻・大串・相之浦・夏井・庵三郎の6か村,東掛が奈良尾・岩瀬浦の2か村,日之島掛が日之島・浦之内の2か村,若松掛が若松・宿之浦・土井之浦の3か村,有川掛が有川・供栖(友住)・太田・鯛之浦・神之浦・江之浜・赤尾・小川原の8か村,宇久島掛が平・太田江・飯良・木場・寺島の5か村である。のち日之島掛と若松掛は合併して西掛となる。荒川村・今里村・三日ノ浦村は平戸藩との相給(二方領)であった。この各掛には代官が設置され,また若松・東・有川・宇久島掛には押役を置いて統制した。山地には山掛と牧司,各村に庄屋・小頭,漁村には戸主(べんざし),竈村には竈司を設置した(五島福江旧藩役其外規則)。家臣は上士・中士・下士・中小姓・小馬廻・陸小姓・歩行・足軽・中間・郷士・小人・行者・六尺・犬遣である。役職は家老・側役・小姓・中小姓・江戸証人・長崎聞役・大目付・陸目付と各奉行(蔵・狩・木屋・船・網・山・町組2奉行)・宗門改役・牧司・新屋(勘定方)・大家御蔵役がみられる。安永年間の城下町は町奉行・町乙名・紺屋乙名・町年寄・散司・小頭,御船元(水主町・戸楽・丸木町)は御船元奉行・御船頭・大船頭・小船頭・小頭・定水夫,足軽町(1番町・2番町・3番町)は者頭・小頭・目付,小人・新小人町は小人支配・小人小頭,職人町は御木屋奉行・大工棟梁・鍛冶棟梁・棟梁脇・小頭の支配があり,在町では有川町乙名と宇久町乙名がみられる。また農漁民は総数1,123人前(1人前10石)で,給知・蔵入・寺・浜・竈百姓に分かれ,各々の役に応じた年貢と公事・夫役負担が決められた。夫役では,例えば蔵入百姓は年間28日間の出夫と普請夫・木座夫・伝馬口付夫と江戸歩銀・馬飼草が賦課されるように,中世期の万雑公事的負担であった。町人も役銀と家別銀・人別銀のほかに,水主役として大坂・長崎行きが賦課されていた。有川湾をめぐる捕鯨問題は本藩と富江領との間で海境争論へと発展していた。有川湾では寛文年間直前には有川村側に10組,魚目村側に8組で捕鯨されるほど盛業で大きな利潤をあげたので,寛文元年の分知に伴う有川湾沖合いの入会権問題は,両者の財政問題のみならず,村民の生活にかかわる重大問題であった。争論は分知直後から生起し,まさに血みどろの激烈な争いであった。両村民の死活をかけた訴訟合戦となり,二転三転し,その解決をみたのは元禄3年の幕府の裁決であった。争論の様子は今日「海境絵図文書」や「鯨組式法定」などとして多く残されているほどである。解決後の捕鯨の状況は,元禄4年の山田茂兵衛組は38本捕獲して銀24貫の純利益を得,また同13年の有川地組の累積利潤は銀417貫に達し,藩に対し勢美鯨1本につき1貫800匁の運上を納入するほどであった。しかし,享保年間には累積利銀もなくなり,赤字経営となった。藩財政は延宝年間から悪化し,延宝3年には領内検地,新地改めと人別改めを施行するとともに農村に奉公人制を公認せざるをえなかった。また各村々から産物を強制的に徴発したりもした。元禄年間には江戸・京都・大坂商人からの融資も途絶え,そのため長崎商人伊藤小兵衛から借銀し,その代償として彼を長崎屋敷の御用商人に任命し,また地元商人から融資を受け,彼らに漁業特権の家督権を付与する状況であった。宝永年間にはついに家臣からの上知策をとるとともに幕府から2,000両を借用し,その返還には農民から高役銀を徴収するに至った。領民に対しては領内総検地をなすとともに,享保年間には初めて厳密な人別改めを施行して人身把握と年貢・公役銀の増徴策をとった。今日,その様子は「人附帳」として残されているが,実に些細を極めていた。農民の貧窮化はさらに拍車がかかり,中層農民でも手許に残るのは2~3石程度で,下層農民は子女を奉公に出し,その些少の給銀で生活を支える状況となった。宝暦13年藩政上最大の悪政といわれる三年奉公制を施行した。これは百姓・町人・職人・丸木の次女以下で15歳になると3年間奉公する制度で,なかには抱主の私的隷属下に置かれ,また結婚を禁止されるなどの生活が展開されることとなった。また荒廃した農村の復興策として安永元年には大村領からの移民を求め,彼らは「居着百姓」と称された。彼らの多くはキリシタンであった。その数は明治初年には3,500人であったといわれている。当時の藩主盛運は人別改めや財政回復策をとったので「福の神」と称されたが,幕府の寛政改革の影響を被ったため再度財政困窮となって地元捕鯨業者山田茂右衛門に資金援助をうけ,彼を蔵元寄合席として藩政に登用させた。寛政9年五島で初めて百姓一揆が起こる状況となって,義倉制度も打ち出された。文化年間に入り,異国船が相次いで長崎に接近し,ついにフェートン号事件が起きたため,幕府は海岸防備の強化と厳重な番役体制を要求した。当藩は領内の鉄砲調査を行わせ,鰯運上金をもって武器作製費に充当し,塩硝問屋を設け,越後流兵学者藤原友衛をロシア船打払掛に任命するとともに,石田城築城の許可を幕府に求めた。また風俗の是正,上下の倫理観の確立,富国強兵,目安箱の設置,知行高の是正,才能主義の役席体制をとらざるをえなかった。一方では殖産政策をとるとともに領内に献銀を求めたため,いわゆる「金あげ侍」も出現するはめとなった。文政4年には従来の学舎を拡大して藩校育英館を設置し,文武振興策とした。富江領でも藩校成章館が設置された。天保年間に入ると「五穀熟せず海漁これなし,年増に蔵元差支え」と語るほどで,江戸・大坂での借銀は金1万両,銀で約600貫に達し,打開策として藤原友衛が献策した有川産物会所設置が画策された。それは,運用の元金は宇久島3,000石を百姓名義の担保として銀200貫を借用し,うち100貫をもって有川産物方で運用し,苧を購入して捕鯨組に卸し,また捕鯨組に先納銀させ,さらに酒・塩を販売して利潤78貫を得て借銀を返済するという,鯨を中心とする国産方仕法であった。この仕法は一時的には成功したが,山田蘇作事件で天保13年に中止し,家臣の禄高改正をもって藩政改革を施行していった。異国船の海岸接近問題から領内は攘夷思想が高揚し,農民にも防備体制を命じて操練を行わせ,海防隊の編成と15歳以上の男子には鉄砲・鳶口・山刀等を準備させた。嘉永2年には石田城築城に着工し,家臣の軍備のために藩札3万両を発行し,城付軍資金3,000両を準備していった。慶応3年10月藩主盛徳へ上京が命じられたが,病気で上京しえず,翌4年8月に上京した。盛徳は攘夷を強化する財政措置に五島一円の所領を願出たため,富江領3,000石が再び当藩領となった。この状況を知った富江領民は騒然となり,竹槍を持った一揆行動をするとともに,上京して反対運動を繰り広げた。新政府は長崎府の井上聞多(馨)を派遣して鎮撫に当たった結果,最終的には富江五島氏に後志国(北海道)に1,000石を与え,富江領は福江藩に吸収された。その間明治2年6月藩主五島盛徳が知藩事に任命された。明治初年の「藩制一覧」によれば,草高2万2,360石余,貢租収入は正租が米8,485石余・金80両余,雑税が金1万3,574両余,戸数1万1,892,うち士族316・卒族285,人口6万2,294。「旧高旧領」での所領は,松浦郡内高2万3,092石余・14か村(福江村・崎山村・大浜村・本山村・岐宿村・三井楽村・玉之浦村・久賀島村・奈留島村・日之島村・若松村・奈良尾村・有川村・宇久島村)。また,ほかに旧旗本五島氏知行(富江領)として高2,394石余・4か村(富江村・魚目村・青方村・神浦村)が見える。なお,この富江領は明治3年8月長崎府に編入した。同4年7月廃藩置県により当藩領は福江県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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